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中部フランク王国

中世ヨーロッパに存在した王国 ウィキペディアから

中部フランク王国
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中部フランク王国(ちゅうぶフランクおうこく、: Mittelreich: Francie médiane)は、ヴェルダン条約によるフランク王国の分裂によって、東フランク王国西フランク王国の中間に、カール大帝の孫で神聖ローマ皇帝の称号を持つロタール1世領土として建てられた王国である。中フランク王国ロタール王国ロタール領ロタールの国と呼ぶこともある。

中部フランク王国
Francia media
フランク王国 843年 - 855年 ロタリンギア王国
プロヴァンス王国
イタリア王国 (神聖ローマ帝国)
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843年
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843年ヴェルダン条約によって国土は、イタリアブルゴーニュプロヴァンス、西アウストラシアに及んだ。領土が入り組んだ形になったのは重要拠点を中部フランク王国が取得したからであるが、その諸民族を統率するべき歴史的、民族的、あるいは地理的一体性もない人為的な建国で、その維持は困難であった。855年ロタール1世の死後、遺領は息子たちがプリュム条約英語版に基づきこれをロタリンギアプロヴァンスおよびイタリアに3分して治め、870年メルセン条約で、それぞれ東フランク王国(国王ルートヴィヒ2世)、西フランク王国(国王シャルル2世)、イタリア王国(国王ロドヴィコ2世)に割譲された。

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