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乳井建定

江戸時代の弘前藩の家老 ウィキペディアから

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乳井 建定(にゅうい たてさだ)は、江戸時代前期の弘前藩家老

概要 凡例乳井建定, 時代 ...

略歴

津軽統一の功臣乳井建清の子として誕生。3000石を食み、津軽姓を許され、家老となる。

寛永10年(1633年)、津軽信義に召し抱えられた新参者の船橋長真に不満を示し、お役御免となった。その後も家老・乾安儔と船橋長真が結託し、悪政を行っていることに不満を持っていたが、服部康成に諌められ、行動を控えていた。翌11年(1634年)7月に信義に従い、3代将軍徳川家光の上洛の伴をした。翌月、江戸に戻ると譜代の家臣兼平信孝らと共に、船橋長真の放逐を求めた(船橋騒動)。

寛永13年(1636年)、江戸幕府より喧嘩両成敗の裁決が下った。そして、建定は兼平信孝と共に長府毛利秀元、乾安儔と船橋長真は伊予松山松平定行の許にお預けとなった。この騒動で服部康成の子・成昌加賀藩前田氏に仕官するなど、多くの譜代の家臣が津軽氏の許を離れた。

その後、建定は長門で死去。乳井氏は弟・建吉が継ぎ、子孫に乳井貢などを輩出した。

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参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
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