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二本榎連続一家殺人事件
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二本榎連続一家殺人事件(にほんえのきれんぞくいっかざんさつじけん)とは1909年11月21日に東京・芝区二本榎で一家5人が殺害され、2年後の1911年11月13日にも二本榎町で一家3人が殺害された事件。
事件
高輪一家5人殺人事件
- 1909年11月21日、二本榎の高輪で郵船会社「川上丸」の船長・工藤嘉三郎宅で妻・たか(33歳)、長男・嘉雄(8歳)、長女・かつ(10歳)、次男・長男(2歳)、女中・民(21歳)の5人が惨殺される事件が発生した[1][2]。このとき嘉三郎は航海中であったため家を留守にしていた[2]。5人はいずれも鉞のような物で撲殺されており、脳漿と血が辺り一面に飛び散り、民の眼球は露出した状態であり、現場に急行した高輪署長と2人の刑事も思わず目を背けるほど凄惨な状態であった[2]。
捜査
高輪一家3人殺人事件
- 2年後の1911年11月14日朝8時頃、芝車町の大工が瀬戸物屋の小沢丑蔵宅を尋ねたが返事がなく不審に思い、勝手口を回るとガラス戸が空いており、八畳の部屋に前日に撲殺された小沢丑蔵(28歳)と妻・ふく(20歳)と手伝いの塩野安次郎(14歳)の3人の死体が発見された[4][2][1][3]。現場はたんすなどが漁られ、強盗目的での犯行だと認定されただちに捜査が開始された[4][1][2]。被害品の有無を調べたがはっきりせず、同家にあった布切れから、新調した模様付きの羽二重の男性用長襦袢が盗られた物と推測し、それを頼りに古物屋などを捜査したが、何も発見できず事件は迷宮入りになろうとしていた。1912年6月13日に被害者丑蔵の妹・さちが被害者宅の瀬戸物倉庫内にあった植木鉢の中に、地に染った空のがま口と手拭い1本が落ちていたと届けた[4]。その重要な遺留品も元に捜査したが、結局何らの端緒も得られることができずにいた[4]。しばらくして中村国太郎が有力なる容疑者として逮捕されたが、取り調べ中に牢屋の格子で首を吊り自殺、冤罪を訴えての抗議の死であったことから事件はまたもや迷宮入りかと思われた[2]。翌1913年8月20日に警視庁は真犯人を発表し、小沢丑蔵宅から盗まれた衣類から足がつき、鳶職の安尾鎌太郎(24歳)という青年が逮捕され鎌太郎は工藤一家殺しも自供した[2][5]。
鎌太郎の自供
鎌太郎の生い立ち
裁判・鎌太郎の最期
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脚注
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