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五経正義
唐の孔穎達等が撰した五経の疏 ウィキペディアから
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『五経正義』(ごきょうせいぎ)は、中国・唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達等が太宗の貞観年間より高宗の永徽年間にかけて撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。
概要
儒教の経典を研究する経学においては、漢から魏・晋の時代には、経書の本文の「経」に対して「注」を附す形式が盛んであり、その後の南北朝時代には、その「経」と「注」の両者に対して「義疏」を附す形式が盛んであった。南朝と北朝とでは、それぞれ主に用いる注が異なっており、経学の傾向に相違があった[1]。
唐の太宗は、経学の盛大なる様を誇示し、なおかつ南北の諸説を統一しようという意図を持って、孔穎達に代表される多くの学者を動員し、『五経義賛』を撰せしめた。これが後に改名されて『五経正義』となった[2]。
『五経正義』の編纂過程は二段階に分かれており、まず貞観12年から14年にかけて孔穎達らが編纂を行い、その後馬嘉運らの批判を受けて、貞観16年に再度孔穎達を中心として編纂が行われた[3]。
内容
『五経正義』が採用した「注」と、「疏」の作成に当たって底本とした前代の義疏は以下の通りである[4]。
編纂者
『五経正義』の編纂は、孔穎達が中心となってその任に当たったが、『五経正義』の各正義の序文には編集に協力した者のリストが付されている。以下に一覧を示す[3]。
他に関与が疑われる人物として、顔師古がいる。顔師古が『正義』編纂に加わっていたことは、『貞観政要』や『旧唐書』孔穎達伝に記載されているが、上の『正義』序には顔師古への言及が全くない[3]。
後世への影響
国家的な事業によって注疏が制定されたことにより、前代までの学問が集大成され、一つの成果が示されたことの意義は大きい。しかし、国家による解釈の統一によって、科挙を受験する諸生は専らこれを暗記するのみとなってしまい、かえって経学の発展が停滞してしまったという側面もある。また、唐代以前に作られた他の注や義疏のほとんどが、姿を消すという結果を招いた。
脚注
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