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京仁線
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京仁線(キョンインせん)は、大韓民国ソウル特別市九老区にある九老駅と仁川広域市中区にある仁川駅を結ぶ、韓国鉄道公社(KORAIL)の鉄道路線。
京釜線・ソウル交通公社1号線・京元線と直通運転を行っており、首都圏電鉄1号線の一部を形成している。
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概要
京仁線は全長27.0kmの電化路線で、起点の九老駅から東仁川駅までは複々線化され、東仁川駅と仁川駅間は複線である。複々線の線路は東仁川から九一駅まで外側が緩行線、内側が急行線の方向別複々線で、九一駅構内で内側の急行線が緩行線の北側へ回り、列車種別複々線となって京釜線の緩行線と合流する。
列車は基本的にソウル市内へ直通し、京釜線とソウル交通公社1号線に乗り入れ、最長で京元線の漣川駅まで至る。複々線区間では緩急分離運転を行っており、急行が東仁川駅とソウル市内の龍山駅を結ぶ。
旅客列車は全て4ドア・ロングシートの通勤型の電車で、KORAILの車両とソウル交通公社の車両が相互乗り入れを行っており、KORAIL所属車両は緩行線・急行線の双方、ソウル交通公社所属車両は緩行線のみを走行する。なお、当路線はムグンファ号などの一般列車は定期運行されていないが、不定期で臨時観光列車が運行されることがある。
旅客案内では「京仁線」の路線名が使われることは少なく(仁川交通公社の案内放送では使用されている)、ほとんどの路線図では「1号線」と表示されている。ラインカラーは紺。詳細は首都圏電鉄・広域電鉄も参照。
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歴史
要約
視点
京仁線は朝鮮半島で最初の鉄道である。当初は日本政府からの借款で建設する計画だったが、三国干渉後の国際情勢では困難となり、鉄道敷設権をアメリカ人実業家モールスに与え、民営鉄道として建設することになった。しかし、建設中に資金難に陥り、1897年4月2日にモールスは鉄道敷設権を渋沢栄一らに百八十万円で譲り渡した[1]。運営事業体として京仁鉄道合資会社が設立され、1899年9月18日に鷺梁津(漢江南岸にあった駅) - 仁川間が部分開業した。最初に営業についたのはアメリカ製の小型蒸気機関車「1C型」であった。翌年には漢江を渡る初めての橋梁(漢江鉄橋)が完成して、京城駅(のちに西大門駅と改称、1919年廃駅)まで全線開通した。なお、この際に南大門駅(現在のソウル駅)が開業した。1901年からは半島を縦貫する京釜鉄道の建設も始まった。
日露戦争を経て、京仁鉄道は半島を結ぶ他の鉄道と共に国有化され、総監府鉄道管理局、総監府鉄道庁、日本政府鉄道院韓国鉄道局、日韓併合(1910年)を経て朝鮮総督府鉄道局の所有へと変遷を繰り返した。
京仁線は後に京釜線の支線となったが、短距離ながらも京城と仁川を結ぶ重要路線であり、本線並みに扱われた。アメリカ製機関車から技術を得た国産高速機関車の導入と、新開発の軽量国産客車は最初にこの路線に投入され、やがて朝鮮全域に広がった。特に軽量客車は、韓国独立後も韓国鉄道庁によって継続して量産され、1990年代まで普通列車(ピドゥルギ号)として使用されていた。線路も輸送力増強の為、早くに複線化された。
太平洋戦争、米軍政、分離独立と朝鮮戦争を経て韓国の鉄道は国土と同じく南側のみとなった。1946年に国内の鉄道は日本時代の私鉄も含めて全て国有化され、韓国鉄道庁が発足した。その後、日本時代と変わらない運行を行っていたが、1965年に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)が調印されると、日本からの援助が引き金となって開発独裁の下で「漢江の奇跡」と呼ばれる未曾有の経済成長を遂げた。京仁線などソウル近郊路線には日本製気動車159両(事業用6両含む)が有償援助として導入され、都市圏輸送に従事した。
しかし、高度成長によって首都ソウルを中心に人口が急増し、鉄道の輸送も変革を求められた。特に自動車保有台数の急増は市内交通に混乱をもたらし、ソウルを走った路面電車は自動車に追い出される形で1968年11月29日に全廃され、新たな都市交通機関が必要となった。
このとき、日本人学生過激派によるよど号ハイジャック事件が発生すると、日韓間で政治協力が図られ、事件への見返りとして日本の地下鉄技術を韓国に引き渡す形で、ソウル中心部への地下鉄建設と、近郊路線の電化、国鉄と地下鉄の相互乗り入れが行われることとなった。
1974年8月15日にソウル地下鉄1号線が開業、京仁・京釜・京元の3路線が電化した。列車は日本から輸入された電車で、国鉄126両、地下鉄60両、6両編成で運転が開始されたが、日中には20分間隔というのどかな物であった。当初は冷房が付いていなかったが、後に増設工事が行われて完全冷房化された。また、利用者の増加に伴って車両を国内企業でも量産し、編成も10両に増強された。また、それまで使用した気動車は周辺路線や地方線区に転出した。
通勤路線として韓国経済を30年間支えたが、やがて限界が訪れる。複線の線路容量いっぱいに4分間隔で電車を走らせたが、1990年代には九一駅 - 九老駅の上り列車で混雑率230%を超え、利用者からは「地獄鉄」と揶揄されていた。
鉄道庁は抜本的対策として増線工事に着手し、1999年1月29日に第一期線として九老駅 - 富平駅が複々線化され、先に3複線が開業していた京釜線の龍山駅まで急行(当時の呼称は「直通」)の運転を開始した。2002年3月15日には朱安駅まで、韓国鉄道公社(KORAIL)移行後の2005年12月16日には東仁川駅まで複々線が延伸し、急行もそれに伴って延長された。
略年表
- 1894年8月1日:日本、清国への宣戦布告(明治27年)。
- 1894年8月20日:日朝暫定合同条款。
- 1895年1月7日:洪範十四条。
- 1895年3月30日:日本銀行・朝鮮政府間に300万円の借款(年利6分。租税抵当3年据置後2年で償還。銀貨と紙幣半額ずつ)。
- 1895年4月17日:下関条約(日清講和条約・馬関条約)。
- 1896年1月:朝鮮政府 経費不足300万円と鉄道建設費200万円の借入申入[2]
- 1896年3月29日:京仁鉄道敷設権をモールスに売る(日朝暫定合同条款違反)[3]
- 1896年4月17日:朝鮮駐在公使小村寿太郎,朝鮮政府に対し,アメリカ人モールスに京仁鉄道敷設権を与えることは暫定合同条款違反と抗議[4]
- 1896年1月:モールス、建設資金を本国で募集するも出資者がなく日本に出資をもとめる。[5]
- 1897年1月:モールスが大川平三郎経由で京釜鉄道発起委員長渋沢栄一に京仁鉄道敷設権の譲渡を申し出。
- 1897年5月4日:京仁鉄道引受組合成立。
- 1897年10月21日:アメリカ人モールス、価格を5万ドルから30万ドルに要求。モールス二百万円貸与で解決。
- 1897年10月13日:朝鮮から大韓帝国に国号変更。
- 1898年3月8日:モールスが三百万円でフランスシンジケートに転売を計画
- 1898年10月31日:京仁鉄道敷設工事の紛議頻出。モールスは困り、現状で京仁鉄道引受組合に引渡しを提案。百八十万円で買取。
- 1899年1月31日:渋沢は横浜正金銀行によりモールスと会見後、京仁鉄道譲受の手続を完了。
- 1899年5月15日:京仁鉄道引受組合は鉄道敷設工事を直営とし、京仁鉄道合資会社設立。渋沢は取締役社長。
- 1899年9月18日:仁川駅 - 鷺梁津駅間の一部開通を祝して仁川停留所にて開通式を行う。山縣総理や各国大使が参列[6]。
- 1900年7月8日:京城駅 - 鷺梁津駅間が開通して全線開業[6]。
- 1900年11月12日:開通式が行われる。
- 1903年11月1日:京仁鉄道が京釜鉄道へ合併吸収され、京釜鉄道京仁線となる
- 1936年4月1日:京城駅(現:ソウル駅) - 永登浦駅間を京釜線に編入。
- 1965年9月18日:全線複線化。
- 1974年8月15日:全線電化、及び首都圏電鉄1号線が開業[7]。同時にピドゥルギ号が廃止され、定期の一般列車運行がなくなる。同時期に起点を九老駅に変更。
- 1999年1月29日:九老駅 - 富平駅間が複々線化され同日より急行電車の運行を開始。
- 2002年3月15日:富平駅 - 朱安駅間が複々線化され急行電車の運行区間も延伸される。
- 2005年12月16日:朱安駅 - 東仁川駅間が複々線化され急行電車の運行区間も延伸される。
- 2016年2月1日:急行電車の停車駅に開峰駅及び済物浦駅を追加。
- 2017年7月7日:日中時間帯を中心に、急行電車より停車駅の少ない特急電車の運転を開始[8]。
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駅一覧
要約
視点
- 駅番号は京釜電鉄線・ソウル交通公社1号線・京元電鉄線と共通。
- 緩行、京元急行は各駅停車であるため省略。
- ●:停車、|:通過
1919年の駅
鷺梁津駅 - 梧柳洞駅 - 素砂駅 - 富平駅 - 牛角峴駅 - 杻峴駅 - 仁川駅
開業当時の素砂駅は富川駅になっており、1997年に開業した素砂駅とは別の駅である。同様に、牛角峴駅は済物浦駅に、杻峴駅は東仁川駅になっている。
使用車両
自局車両
乗り入れ車両
脚注
関連項目
外部リンク
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