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今村恭太郎
日本の裁判官 ウィキペディアから
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今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明治2年5月10日) - 1936年(昭和11年)12月7日)は、日本の裁判官。日比谷焼打事件の裁判長などを務め、借地借家法の功労者としても知られる。妻・菊子は伍堂卓爾の六女で[1]、海軍軍人で実業家、政治家の伍堂卓雄の妹。
略歴
- 1869年 今村信行(大審院判事)の長男として出生。明治法律学校卒業。
- 1893年 判事検事登用試験に合格し、司法官試補となる。長野区裁判所に赴任。
- 1896年 下谷区裁判所判事
- 1897年 東京区裁判所判事
- 1900年 東京弁護士会入会[2]
- 1901年 東京弁護士会退会、東京地方裁判所判事
- 1902年 東京控訴院判事
- 1903年 東京地方裁判所部長 - 新聞紙条例事件、日比谷焼討事件事件等
- 1910年 東京控訴院部長
- 1913年 神戸地方裁判所長、高等官二等
- 1919年 横浜地方裁判所長
- 1920年 東京地方裁判所長、高等官一等
- 1927年 広島控訴院長
- 1936年 死去。68歳。墓所は谷中霊園。
エピソード
関東大震災発生時には東京地方裁判所所長であり、岡慶治(日比谷焼討事件の左陪審 [注釈 1])は浦和地方裁判所所長であった。
裁判例
栄典
- 位階
- 勲章等
関連項目
脚注
参考文献
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