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仏の顔も三度まで
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仏の顔も三度まで(ほとけのかおもさんどまで)は、日本のことわざ。「仏の顔も三度」[1][2][3]、「仏の顔も日に三度」[4][3]、「地蔵の顔も三度」[1][4][3]、「仏の顔も二度、三度」[4][3]とも呼ばれる。
概要
仏というのは慈悲深いものであるけれど、それでも顔を3度もなでられると腹を立てる[1][3]。ここからどんなに寛大な人物でも、無法なことを何度もされると怒るということを意味する言葉となっている[1][4][3]。これは江戸時代から使われてきたことわざで、古くは「仏の顔も三度撫ずれば腹を立つ」であったのが略されて現在のような形になっている[5]。
狂言「貰聟」に「仏の顔も三度撫づれば腹を立つと申すが」として現れる[6][4][3]。近松門左衛門『冥途の飛脚』には「親の心や仏の顔も三度飛脚の江戸の左右」、『傾城禁短気』には「仏の顔も三度とやらにて、いかな気の永い大臣もむっとして来て」と見える[1][4][3]。
民間語源
このことわざについては、仏教関係者によって、次のような民間語源が語られることがある。
古代インドにはコーサラ国とマガダ国という2つの強大な国が存在していた[7][8]。コーサラ国のパセーナディ王は仏教を信仰していたので、釈迦の出身であった釈迦族から妃を迎えることとし、王妃はビドゥーダバ王子を産んだ[9]。しかし、実は王妃は身分の低い女性であり、釈迦族が自らを蔑んでいることを知ったビドゥーダバ王子は釈迦族を怨み、王位に即いた後、軍を率いて釈迦族のカピラヴァストゥに向けて進撃を開始した[9]。その途中、枯木の下で坐禅する釈迦に出会い、釈迦の説得を3度まで受け入れて3度軍を引き返させたが、4度目にはその姿がなかったためとうとうカピラヴァストゥに攻め込み、釈迦族を皆殺しにしてしまった[10][9]。
釈迦の弟子・目連は神通力によって釈迦族を救うことを申し出たが、釈迦は彼らの業による因果応報であるとしてこれを断った[9]。またビドゥーダバ王は帰国後暴風雨により川で溺死したが、それもまた因果であるとされる[9]。
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脚注
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