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仙石政明

日本の江戸時代前期~中期の大名。信濃上田藩士仙石忠俊長男で、上田藩2代藩主仙石政俊養子。上田藩3代藩主及び但馬出石藩初代藩主。従五位下越前守 ウィキペディアから

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仙石 政明(せんごく まさあきら)は、信濃国上田藩3代藩主、のち但馬国出石藩初代藩主。出石藩仙石家4代。

概要 凡例仙石政明, 時代 ...

生涯

万治2年(1659年)3月1日、信濃上田藩主・仙石氏の一族である仙石忠俊の長男として誕生。

父・忠俊は2代藩主・仙石政俊の世嗣であったが、寛文7年(1667年)2月に早世したため、政明が祖父・政俊の養嗣子となり、寛文9年(1669年)2月25日に政俊が隠居すると家督を継いだ。しかし幼少のため、実権は政俊が握っていた。藩主就任のとき、政俊の弟・仙石政勝に2000石を分与したため、上田藩は5万8000石となった。

寛文12年(1672年)12月28日、従五位下・越前守に叙任する。延宝2年(1674年)7月に政俊が死去すると、仙石政勝や松平光勗らの補佐を受けた。藩の財政がこの頃から行き詰まったため、延宝3年(1675年)7月に上米・倹約令などを出している。

天和元年(1681年)には酒井忠能改易により、駿河田中城受け取り役を務めた。また同年、上野沼田藩のお家騒動と改易に伴い、真田信利の三男・栗本直堅(栗本外記)と四男・真田辰之助を預かり、上田城内の空き屋敷に軟禁する(元禄元年(1688年)赦免)。貞享元年(1684年)には越後高田城在番を務めている[1]。貞享3年(1686年)と元禄15年(1702年)の2度にわたり、上田城の修築工事を行っている。

宝永3年(1706年)1月28日、上田藩から但馬出石藩へ移封された。

享保2年(1717年)6月6日に死去、享年59。男子6人が全て早世したため、分家の政房を養子にして跡を継がせた。

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系譜

脚注

外部リンク

関連項目

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