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伊王野坦

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伊王野 坦(いおの たいら[1]/ひろし[2]文化11年(1814年) - 明治16年(1883年11月12日)は、幕末から明治時代にかけての蘭学者政治家鳥取藩士、藩医師。別名、資明。通称、平六、次郎左衛門。伊王野氏20代当主伊王野資信の末子・資壽の子の資年の末裔。

経歴

田中三郎右衛門の子として、伯耆国河村郡石脇村(現・鳥取県東伯郡湯梨浜町石脇)に生まれた。のちに伊王野家の養子となった。

江戸の箕作阮甫ならびに大坂の緒方洪庵に師事した。大坂で結婚し、一時青木浩斎(あおき こうさい)と名乗るが、安政3年(1856年)に郷里に帰り、鳥取藩の周旋方等を務めた[3]。安政4年(1857年)に青木浩斎名義で日本初の内科診察学の訳書フーフェラント著『察病亀鑑』[4]を刊行した。

明治元年(1868年)閏4月28日から明治3年(1870年)11月23日まで久美浜県知事を務め、鳥取県権少参事等を歴任した。旧士族の授産事業に尽力した。明治16年(1883年)70歳で没した。

大正8年(1919年)に従五位を贈られた[5]。墓は郷里の湯梨浜町石脇にある。

脚注

参考文献

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