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佐治新介
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佐治 新介/佐治 新助(さじ しんすけ、生没年不詳〈天正11年没とも〉)は、安土桃山時代の武将。滝川一益の家臣[1]。『細川家記』および『寛政重修諸家譜』によれば、名は益氏(ますうじ)[2][3]。
経歴
織田信長の重臣で北伊勢5郡を領する滝川一益に仕えた[4]。出自の佐治氏は滝川氏と同じく近江国甲賀郡に起こって尾張国に広がった氏族で[5]、『祖父物語』によれば知多郡大野の佐治氏の一族である[6]。
天正7年(1579年)10月、有岡城の戦いにおいて一益の調略により支城の上﨟塚砦を守る中西新八郎を寝返らせる使者に立った(『信長公記』)[7]。天正10年(1582年)に一益が武田氏を滅ぼして上野国を与えられた際の動向を伝える『関八州古戦録』『北条五代記』などの軍記物語に佐治新介の名は見えない[8][9]。
天正11年(1583年)、一益は織田信孝・柴田勝家に与して伊勢で織田信雄・羽柴秀吉に対して挙兵し、秀吉方の関盛信が正月の挨拶に出て不在の隙に亀山城を奪取して、佐治新介を配置した[1]。これに対して2月に安楽峠を越えて伊勢に侵攻した秀吉の弟羽柴秀長が一益の甥滝川益重が守る峯城を包囲した上で亀山城に押し寄せた[10]。亀山城の戦いは2月16日から始まり、門を開いて討って出た城兵が一時は寄せ手を切り崩す激戦となったが、秀長麾下の細川忠興勢の奮戦で城内に押し返された[1]。一益が在城する桑名城を攻めていた秀吉も亀山城の包囲に加わり、大軍をもって城兵から奪取した城下に柵と竹木を連ねて城門からの出撃を妨害し、ついで堀の際まで接近して石垣を突き崩し、金堀(坑道)を掘り進めて櫓を倒壊させる猛攻を行った[10]。山内一豊は、配下に五藤為浄など多くの戦死者を出しながら城内への一番乗りを果たした[1]。2月28日には、もう一人の大将である織田信雄も包囲に加わった。秀吉軍の攻撃を何度も撃退した佐治新介も徐々に追い詰められ、3月3日、一益の勧告を受けて降伏し亀山城を開城した[10]。
『武功雑記』には亀山城開城時に佐治新介は切腹したとあるが[11]、同時代史料の『兼見卿記』『多聞院日記』『秀吉事記』によれば助命されて退城している[10][12]。『祖父物語』では退城後、峯城よりも早期の開城に面目を失って切腹したとされる[6]。
以後の動向は不明。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで一益が秀吉に味方した際に、『家忠日記増補』では佐治新介が亀山城を守っていたとされ[13]、『改正三河後風土記』では関盛信父子が守る亀山城に加勢したとされている[14]が、前年の亀山城攻防戦と混同したものであって誤りと指摘されている[1]。
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脚注
関連項目
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