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佐波興連
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佐波 興連(さわ おきつら)は、戦国時代の武将。大内氏や毛利氏に属した石見国の国人で、石見国の龍岩寺城主、後に八幡城主。
生涯
石見国の国人・佐波氏の当主である佐波秀連の次男として生まれる[1]。諱の「興」の字は大内義興の偏諱を受けたものと思われる。
佐波氏の家督を継いだ兄の誠連に仕えた後は、誠連の子の隆連に仕え、隆連が大内氏の本拠である周防国山口に出府している間は、興連が石見国で隆連の代行を務めた[4]。
天文20年(1551年)、大寧寺の変の際、誠連の子で甥・佐波隆連が大内義隆に殉じ、弘治元年(1555年)の厳島の戦いの後、毛利元就と誼を通じ支配下に入った。弘治2年(1556年)に八幡城を築き、出雲国への備えとした。
佐波隆連には男子が無く、そのため佐波氏の家督は嫡男・隆秀に継がせたが、実質的な後見人として、佐波家中を取り仕切っていたと思われる。永禄5年(1562年)の6月発給の文書にて、興連が家臣の石橋新左衛門尉を雲州商人司、塩治・朝山司に任じており、その生存が確認できる。
脚注
参考文献
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