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侯官県
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侯官県(こうかん-けん)は、漢代から中華民国初期にかけて存在した県。現在の福建省福州市中心部および閩侯県の一部に相当する。
歴史
漢代に冶県が設置されたのが、侯官県の前身である。196年(建安元年)、後漢により冶県の西部が分離されて、侯官県が新設された。282年(太康3年)、西晋により侯官県の東部が分離されて、原豊県が置かれた。南北朝時代になると、梁の天監年間(502年-519年)に原豊県と侯官県が統合され、東部侯官と称された。隋代になると、589年(開皇9年)に再び原豊県と改称。592年(開皇12年)には閩県と改称された。
唐代になると、623年(武徳6年)に閩県を分割して、侯官県が設置された。2年後に再び侯官県は閩県に編入された。702年(長安2年)、侯官県が再び設置された。808年(元和3年)、侯官県は閩県に再び編入された。810年(元和5年)、侯官県が再び設置された。五代十国時代になると、933年(長興4年)に閩により侯官県は閩興県と改称された。935年(清泰2年)、再び侯官県の名称に戻された。1580年(万暦8年)、明により懐安県(閩県より分割)が侯官県に統合された。以降の侯官県の領域は清末まで沿襲された。
1912年(民国元年)、中華民国が成立すると、閩県および侯官県が合併し、閩侯府が成立した。まもなく実施された府制廃止に伴い、閩侯府は侯官県と改称された。同年、閩県と侯官県が統合され、それぞれの文字を取った閩侯県が成立した。
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福建省の歴史的地名 196年 - 1912年 |
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