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兵站部財務官

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兵站部財務官
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兵站部財務官[1](へいたんぶざいむかん、: Treasurer of the Ordnance)は、イギリス軍需局英語版の役職であり、軍需総監英語版の部下として財務を担当した。1670年に設立され、1836年に廃止された[2]

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初代兵站部財務官ジョージ・ウォートン英語版、1683年。

解説

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最後の兵站部財務官である第4代準男爵サー・ヘンリー・パーネル英語版ジョン・ドイル画、1832年出版。

1540年代に軍需局英語版が規模を拡大したが、財務を専門とする役職はなく、1542年から1547年まではロンドン塔管理長官が財務を担当した[3]。1547年以降は軍需局副長官軍需局測量総監英語版が共同で担当したが[3]、1670年に財務を担当とする財務官が創設された[4]

任命は国璽が押印された特許状(letters patent)の形で行われ、任期は陛下の仰せのままに、年俸は特許状で40ポンドと記載された[2]

最後の兵站部財務官である第4代準男爵サー・ヘンリー・パーネル英語版[2]は1835年4月に海軍財務長官、5月に軍事支払総監に任命された[5]。そして、1836年12月1日の特許状により軍事支払総監、海軍会計長官、兵站部財務官、チェルシー王立病院英語版支払及び会計長官が支払総監英語版に統合され、パーネルは支払総監に移行した[5]

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一覧

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1681年から1699年まで、1702年から1705年まで兵站部財務官を務めたチャールズ・バーティー閣下英語版ピーター・レリー画。
  • 1670年11月25日 – 1681年8月12日:ジョージ・ウォートン英語版(1677年12月31日、準男爵に叙爵)[2]
  • 1681年8月12日 – 1699年6月8日:チャールズ・バーティー閣下英語版[2]
    • 1675年1月23日に復帰権(reversion)を与えられ、1681年8月12日に就任[2]
  • 1699年6月8日 – 1702年6月16日:ハリー・モードント閣下英語版[2]
  • 1702年6月16日 – 1705年5月28日:チャールズ・バーティー閣下英語版[2]
  • 1705年5月28日 – 1712年6月30日:ハリー・モードント閣下英語版[2]
  • 1712年6月30日 – 1714年12月2日:チャールズ・エヴァーズフィールド英語版[2]
  • 1714年12月2日 – 1720年1月4日:ハリー・モードント閣下英語版[2]
  • 1720年5月21日 – 1751年9月29日:ジョン・プランプター英語版[2]
  • 1751年12月31日 – 1762年5月19日:フランシス・ガッシュリー英語版[2]
  • 1762年6月10日 – 1763年5月10日:チャールズ・ジェンキンソン英語版[2]
  • 1763年5月10日 – 1780年11月28日:ジョン・ロス・マッカイ(John Ross Mackye[2]
  • 1780年11月28日 – 1782年5月27日:ウィリアム・アダム英語版[2]
  • 1782年5月27日 – 1783年5月10日:ウィリアム・スミス英語版[2]
  • 1783年5月10日 – 1784年1月12日:ウィリアム・アダム英語版[2]
  • 1784年1月12日 – 1803年10月13日:ウィリアム・スミス英語版[2]
  • 1803年10月28日 – 1806年2月20日:ジョセフ・ハント英語版[2]
  • 1806年2月20日 – 1807年4月7日:アレグザンダー・デイヴィッソン英語版[2]
  • 1807年4月7日 – 1810年1月30日:ジョセフ・ハント英語版[2]
  • 1810年1月30日 – 1818年6月20日:トマス・アルコック英語版[2]
  • 1818年6月20日 – 1831年1月31日:ウィリアム・ホームズ英語版[2]
  • 1831年1月31日 – 1835年1月12日:トマス・クリーヴィー英語版[2]
  • 1835年1月12日 – 1835年5月9日:アレグザンダー・パーシヴァル英語版[2]
  • 1835年5月9日 – 1836年12月1日:第4代準男爵サー・ヘンリー・パーネル英語版[2]
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出典

参考文献

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