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合勢川の戦い
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合勢川の戦い(あわせがわのたたかい)は、永禄2年(1559年)5月に、肥後国菊池郡の、道場原と木山原と大林原で勃発した赤星道雲と隈部親永による合戦[5][6]。
概要
菊池氏の滅亡後に、その勢力圏であった肥後北部は、庶流木野氏・赤星氏と、重臣隈部氏らが、大友氏の承認の元に支配する形で一応安定していた。
庶流赤星氏と重臣隈部氏の敵対関係
弘治2年(1556年)に、大友義鎮による小原鑑元討伐戦で、木野親政が討死して木野氏が断絶した。
木野氏遺領を赤星道雲が相続した後で、木野氏遺領の一部を隈部親永が欲しがった事に由り、赤星氏と隈部氏が敵対する。
合戦布陣
永禄2年(1559年)5月に、隈部親永は軍勢600を率いて、木野氏遺領に侵軍して、木山原から初田川を挟んで三町ほど離れた池田灰塚に陣を構えている。
迎え撃つ赤星道雲は、自ら軍勢700人を率いて大林原に本陣を置いた。家臣の山鹿郡長坂城城主・星子中務丞の軍勢400を木山原に布陣させて、一族の赤星蔵人の軍勢400を道場原に布陣させた。
道場原の戦い
5月21日に、肥後国菊池郡道場原(熊本県山鹿市菊鹿町大字松尾道場)で、隈部軍から鉄砲50・弓100による攻撃が行われ戦闘が始まった。
赤星軍本隊から離れて隈部軍の側面に布陣していた赤星蔵人は、一気に勝敗を決するべく斬り込もうとして高所に駆け上った所で隈部軍の銃弾を受けて討死した。
この時に、赤星蔵人が『よけ(苗代田の水口に置く、わらで作った枕の形をした物)』を枕に討死した事から、その場所を後世の人が『横枕』の地名で呼ぶように成ったという。
この日の道場原の戦いでは、赤星蔵人が討死した事に由り、隈部軍が勝利した。
赤星蔵人が率いていた軍勢200は、大林原に退却した。赤星道雲と星子中務丞は自軍が数で勝るので、大林原と木山原で対陣を続けている。
木山原の戦い
5月30日に、隈部軍は、雨の中で夜襲を敢行して、肥後国菊池郡木山原(熊本県山鹿市菊鹿町大字松尾木山)で、星子中務丞の軍勢200を討ち取った。
星子中務丞は軍勢200を率いて山鹿郡長坂城に退却した。
大林原の戦い
5月30日に、隈部軍は、木山原で星子中務丞を山鹿郡長坂城に敗走させた後で、赤星道雲の本陣を夜襲した。
肥後国菊池郡大林原(熊本県山鹿市菊鹿町大字松尾大林)で、赤星軍900騎は夜襲されたので、600騎が討死して、300騎で隈府城に敗走した。
脚注
参考文献
外部リンク
関連項目
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