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呂号第百十四潜水艦

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呂号第百十四潜水艦(ろごうだいひゃくじゅうよんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の15番艦。

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艦歴

1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画[1]により、1942年10月12日、川崎重工業泉州造船所[3]で起工。1943年(昭和18年)6月19日進水。1943年11月20日、川崎重工業神戸造船所[3]で竣工し、二等潜水艦に類別[1]呉鎮守府籍となる[4]。25日、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。

1944年(昭和19年)2月20日、第8潜水戦隊第30潜水隊に編入[4]

3月11日、呂114はを出港し、南西諸島方面で対潜水作戦に従事[5]。その後、呉に戻った。3月25日、第30潜水隊の解隊に伴い、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入。

6月1日、呂114は呉を出港し、佐伯に移動。4日、佐伯を出港し、サイパンに移動。11日、サイパンを出港しサイパン周辺海域に進出[5]。同年6月12日、哨戒区域に到達したとの報告を最後に消息不明[1][5]

アメリカ側記録によると、サイパンの戦いを支援中の米駆逐艦メルヴィン(USS Melvin, DD-680)、ワドレー英語版(USS Wadleigh, DD-689)が潜水艦を探知。2隻は爆雷攻撃を行い、潜水艦を撃沈した[1][5]。これが呂114の最期の瞬間であり、艦長の阿多義広大尉以下乗員55名全員戦死[6]。沈没地点はテニアン島西方80浬地点付近、北緯15度02分 東経144度10分

7月12日、サイパン付近で亡失と認定され、8月10日に除籍された[1][7]

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歴代艦長

艤装員長

  • 不詳

艦長

  • 河島守 大尉:1943年11月20日 - 1944年4月30日[6]
  • 阿多義広 大尉:1944年4月30日 - 6月17日戦死[6]

脚注

参考文献

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