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和気広世

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和気 広世(わけ の ひろよ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族学者民部卿和気清麻呂の長男。官位正五位下左中弁。史料によっては「弘世」と記されたものある[1]

概要 凡例和気 広世, 時代 ...

経歴

備前国出身。当初文章生として朝廷に仕える。延暦4年(785年)に事件(藤原種継暗殺事件と想定される)に連座して禁錮に処せられるが、特別の恩赦により少判事に任ぜられる。櫻木潤によれば、早良親王が僧侶だった頃に居住していた大安寺には和気清麻呂が八幡宮を勧請して建立した南塔院(塔中院)があり、広世もその縁で親王に近侍して学問や仏教などの分野で影響を受ける間柄であったために処分を受けたのではないかと推測している[2]。その後従五位下式部少輔に任ぜられ、大学別当を兼ねた。

大学別当在任時に、墾田20町を大学寮に寄付して勧学料とし、これまで明経道試の結果が上位二階級(上上・上中)のみ叙位の対象としていたものを、上位四階級まで(上下・中上まで)叙位する案を提出した。また、大学寮の学者らを呼び、陰陽書や『新撰薬経』『大素』を講論させた。さらに、大学寮の南にあった和気氏の私邸に内外の経書数千巻を収めて、父・清麻呂の遺志を継いで、和気氏出身の子弟のための学館である『弘文院』として創建した。また、墾田40町を学問料として充当したという。[3]

桓武朝後半は式部少輔と大学頭を務める一方で、延暦18年(796年阿波守、延暦24年(805年美作守と地方官を兼ねる。また、延暦18年(796年)には私墾田100町を美作備前両国の8郡30余郷の困窮者に対する財源とするために賑給田として寄進することを上奏し、許されている[4]。桓武朝末の延暦25年(806年)式部大輔に昇格する。

大同元年(806年)平城天皇即位後まもなく、正五位下左中弁に叙任された。

早くから最澄空海と交流を持ち、特に最澄と密接な関係にあった。最澄とは延暦20年(801年)頃には既に関係を持ち、その俗弟子となっていた。一乗忠の『叡山大師伝』には延暦21年(802年)正月に高雄山寺で開催された所謂「高雄天台会」における広世から最澄に充てられた招請状が引用され、同年には広世から最澄を紹介された桓武天皇が同年9月に天台教学を極めるために最澄自らが唐に渡るように勧める詔を広世を通じて送っている[5]。前述の櫻木によれば、広世は藤原種継暗殺事件に連座した後、桓武天皇の登用を受けつつも早良親王ら事件関係者の救済を願っており、そのことが最澄・空海との出会いや彼らの桓武天皇への紹介につながったのではないかとしている[2]

亡くなった時期は不明であるが、『叡山大師伝』から延暦24年(805年)8月、『日本後紀』では大同元年5月が終見であり、弘仁4年(813年)正月に最澄が高雄山寺の三綱に充てた書状に登場する「故但馬守」を広世に充てる説[6]があることから、大同から弘仁初めに亡くなったと推測されている[7]

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官歴

日本後紀』による。

系譜

脚注

出典

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