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和田純 (国際政治学者)
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和田 純(わだ じゅん、1949年8月- )は、国際交流・知的交流の実務家でファシリテーター。日本政治外交史、文化外交を専門とする政治学者。 神田外語大学名誉教授。
略歴
要約
視点
大阪府池田市に生まれる。大阪教育大学付属池田小学校・同中学校に進学し、転居に伴って兵庫県立神戸高校を卒業。1973年慶應義塾大学経済学部を卒業し、1975年同大学大学院経済学研究科を修了。
大学・大学院の在学中に、外国籍(在日韓国人)であることを理由に日立製作所から採用内定を取り消された「日立就職差別事件」の裁判支援に関わり、「朴君を囲む会」の事務局を担った[1]。1974年6月19日の横浜地方裁判所判決は、在日朝鮮・韓国人に対する差別が社会的に存在することを認め、内定取り消しは解雇相当で無効とするもので、日立の控訴断念により確定判決となった[2]。日本人と在日朝鮮・韓国人の双方が自らのあり方を自問する新しい挑戦になったとされ[3]、就職上のあらゆる差別に対する判例と見なされている[4]。
1975年4月に国際交流基金に入り、7年間、公演・展示事業に従事する。日本文化の海外紹介も多く手掛けたが、特に「アジア伝統芸能の交流(ATPA)」シリーズを立ち上げから継続実施し、アジア文化の理解、保存、発展に尽力した[5]。36年ぶりの中国京劇の招聘も手掛け、それを機に杉浦康平と組んで、仮面舞踊の実演と対になった「熱きアジアの仮面展」、アジアの豊饒さを再認識するための「アジアの宇宙観展 コスモス編+マンダラ編」といった先駆的な事業を展開した[6]。
1983年から1986年は同基金ロンドン事務所長を務め、同基金の事業全般を担うとともに、飛騨高山祭のからくり山車の実演展示や、 エディンバラ国際フェスティバルと組んで蜷川幸雄や野田秀樹の海外デビューに道を開いた[7][8]。
帰国して東京本部勤務となり、同基金の監事だった楠田實のもとで特命事項を担当し、政治との関わりを深める。1988年5月に竹下登総理大臣のもとに置かれた<国際文化交流に関する懇談会>では、国際文化交流を安全保障に不可欠なものと位置づけ、国際交流基金の資金3倍増、人員2倍増を方向づけた[9]。
1990年には、安倍晋太郎の主導で500億円の基金を新設し、日米のグローバル・パートナーシップの拡充を目指すCGP / Center for Global Partnership(国際交流基金日米センター)創設の中軸を担った[9]。91年5月にはCGPニューヨークセンターを開設し、所長として赴任。米国の大規模財団と提携しながら、グローバルな政策対話や政策研究を含む知的交流と草の根交流の拡充に尽力した[10][11]。
1996年4月、財団法人日本国際交流センター(山本正理事長)に転職。チーフ・プログラム・オフィサー兼研究企画主幹として、世界規模でシンクタンクの連携を目指す「グローバル・シンクネット」、トラック2での政策協議のための「アジア太平洋アジェンダ・プロジェクト(APAP)」、「アジアの明日を創る知的対話」などを担う[12]。
20世紀の歴史の帳尻を21世紀に持ち越さず、同じ原資料をもとにアジアの歴史認識を深めあうことを目指して、石井米雄とともに国立公文書館アジア歴史資料センター設立のための基本調査・システム設計も行った[13][14]。
また、山本正とともに、「官」から「民」へのパワーシフトと公益を担うシヴィル・ソサエティの強化を目指して[15]、特定非営利活動促進法(NPO法)の制定に尽力し、日本NPO学会の創設にも参画した[16]。
1999年3月には小渕恵三内閣の内閣官房に民間から逆出向し、総理大臣のもとに置かれた<「21世紀日本の構想」懇談会>の担当室長を務める。のべ49名の識者による1年にわたる論議を踏まえて最終報告書をとりまとめ、統治から「協治」へ、選挙権の18歳への引き下げ、「開かれた国益」の追究、隣交などを提言した[17]。
小渕総理の急逝にともない、2000年9月から神田外語大学教授。2001年から同大学異文化コミュニケーション研究所の所長を兼任[18]。2020年から名誉教授。
大学では国際平和論などを教えるかたわら、学生が社会起業家精神に触発される機会を求めて、2003年から大学グッズの自主開発をゼミで開始。同時に、収益の社会還元を目指して「和田ゼミ社会起業研究会」を並行展開。「幕張チャリティ・フリーマーケット(幕チャリ)」、フェアートレード、Stop AIDS、TABLE FOR TWO、震災復興支援・防災など、多彩な社会貢献プロジェクトを15年にわたって展開した。アジアの自立支援のために幕チャリが生み出した寄付金は約2,000万円にのぼる。こうした足跡はStep Forwardにまとめられている。
並行して、楠田實が遺した膨大な政治関連資料を20年にわたって編纂し、全件をデジタル刊行するとともに(原資料は国立公文書館に寄贈[19])[20]、楠田實の評伝『匿名への情熱』を上梓して、戦後政治と知的世界とのつながりを明らかにした[21]。
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著書
単著
- 『匿名への情熱―政治と知的世界をつないだブレーン 楠田實』(吉田書店、2025年)
編纂資料
共著・共編著
- 朴君を囲む会編『民族差別―日立就職差別糾弾』(亜紀書房、1974年)
- 『京劇集錦』(国際交流基金、1979年)
- 富山治夫写真・杉浦康平構成『京劇1』『京劇2』(平凡社、1980年)
- 『神々の跳梁』(国際交流基金、1981年)
- 杉浦康平構成『変幻する神々―アジアの仮面』(日本放送出版会、1981年)
- 杉浦康平構成・岩田慶治監修『アジアのコスモス+マンダラ』(講談社、1982年)
- Karakuri Ningyo(からくり人形), Barbican Art Gallery, London, 1985
- 日本国際交流センター『アジア歴史資料の現状と所在・「歴史資料」収集システムの国際比較』(内閣官房内閣外政審議室、1997年)
- 「21世紀日本の構想」懇談会『日本のフロンティアは日本の中にあるー自立と協治で築く新世紀』(講談社、2000年)
- 『日本国内所在の主要アジア歴史資料に関する調査報告書』(国立公文書館アジア歴史資料センター、2008-2011年)
単行本所収論文
- 「アジア太平洋の知的交流」国分良成編著『日本・アメリカ・中国―協調へのシナリオ』(TBSブリタニカ、1997年)
- Applying Track Two to China-Japan-U.S. Relations, In Kokubun Ryosei, ed. Challenges for China-Japan-U.S. Cooperation, Japan Center for International Exchange, 1998
- 「シヴィル・ソサエティ関連資料・文献解題」五百旗頭真・入江昭・太田弘子・山本正・吉田慎一・和田純『「官」から「民」へのパワーシフト―誰のための「公益」か』(TBSブリタニカ、1998年)
- 「東アジアにおける日本の国際文化交流と文化外交」添谷芳秀・田所昌幸編著『日本の東アジア構想―現代東アジアと日本1』(慶應義塾大学出版会、2004年)
- American Philanthropy in Japan, In Yamamoto Tadashi, ed. Philanthropy & Reconciliation: Rebuilding Postwar U.S.-Japan Relations. Japan Center for International Exchange、2006
- 「アメリカのフィランソロピーは日本に何を残したのか」山本正編『戦後日米関係とフィランソロピー―民間財団が果たした役割1945~1975年』(ミネルヴァ書房、2008年)
- 「物語:縮む「地球」と膨らむ「世界」」神田外語大学国際社会研究所編『グローカリゼーション 国際社会の新潮流』(神田外語大学出版局、2009年)
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脚注
外部リンク
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