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哀帝 (唐)
唐の皇帝 ウィキペディアから
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哀帝(あいてい)は、唐朝の第23代(最後)の皇帝。昭宗の九男。昭宣帝(しょうせんてい)とも呼ばれる[1]。また唐の皇帝としては2人目(追尊を除く)の、廟号を贈られなかった皇帝であった[1]。
生涯
初めは輝王(きおう)に封じられる。名は祚(そ)だったが、即位後に祝(しゅく)と改めている[1]。
904年4月に父の昭宗が朱全忠により殺害されると、その朱全忠により擁立された[1]。
しかし、禅譲のためだけに即位させられたに過ぎず翌905年2月には徳王李裕・棣王李祤・虔王李禊・沂王李禋・遂王李禕・景王李祕・祁王李祺・雅王李禛・琼王李祥ら、自身の兄弟9人が朱全忠の開いた偽りの宴会にて殺害されると、さらに6月には貴族層であった唐の朝臣も粛清された(白馬の禍)。
こうして朝廷を完全に掌握した朱全忠により、907年に哀帝は朱全忠への禅譲を余儀なくされた。こうして唐王朝は滅亡した。禅譲後は朱全忠により後梁の済陰王に封じられたが、翌908年に後難を恐れた太祖朱晃(朱全忠より改名)によって曹州の済陰宮で毒殺された。享年17[2]。
脚注
参考文献
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