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国鉄D60形蒸気機関車
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国鉄D60形蒸気機関車(こくてつD60がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の貨物用テンダー式蒸気機関車である。
D50形を改造して登場した。1951年(昭和26年)から1956年(昭和31年)にかけて、5年間で78両が改造された。この数は60代形式(2軸従台車)の蒸気機関車では最多となる。改造所は国鉄浜松工場、長野工場、土崎工場、釧路工場であった。
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改造までの経緯
終戦数年後の1950年代、D50形は戦後の電化の進行に伴い、余剰状態となっていた。一方で、丙線区の貨物列車は当時は9600形やC58形が牽引していたが、9600形は老朽化が著しく、C58形は牽引力が不足しており、丙線区向け貨物用蒸気機関車については新形式の登場が望まれていた。
そこで、余剰化していたD50形のうち、状態の良い車両を軸重軽減改造し、9600形の代務機として丙線規格に適した改造をすることになった[1]。就役年数を考えるとD50ではなくD51を軸重軽減改造するべきという意見もあったが、D51は貨物輸送の主力であったため改造に回す余裕がなかった。[2]
構造

D50形からの改造なので、動輪直径もD50形と同じ1,400 mm。軸配置は、従来の1D1(先輪1軸+動輪4軸+従輪1軸)のミカド形から、従輪を2軸とした1D2(先輪1軸+動輪4軸+従輪2軸)のバークシャー形とし、軸重をD50形の14.70 tから13.67 tに軽減した。
軸配置を変更しただけでなく、軸重軽減による空転を防止するため、シリンダー径を570 mmから550 mmに縮小したほか、出力低下を抑えるためボイラー過熱面積を64.4 m2から75.2 m2に拡大した。総重量(炭水車を除く)は81.56 t。
なお、原形であるD50の内訳は1950年(昭和25年)当時の在籍車で下記のようになる[3]。
D60の改造種車となったD50はこのうち、先従輪直径940 mm、先輪復元装置リンク式、動軸ばね装置上ばね式のものである[3]。
改造の時点で、将来的に940 mmの車輪は規格から外すことが決まっていた。主台枠後部の改造と同時に全く新規の2軸従台車へ交換されるため、元が860・940 mmのどちらの車輪径でも関係はない。先台車は改造後の予定負担重量が大きいため、それが小さかったD50のものを流用せず、新規に制作したコロ式復元装置のもの[注釈 1]へ交換となったため、こちらも元の直径・復元装置の構造は無関係となる。また、乗務員に好評であった下ばね式車両を種車としなかったのは、車抜きが不便なことと、上ばね式へ改造も困難だったためである[注釈 2]。
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運転
改造当初は池田機関区、横手機関区、黒沢尻機関区、郡山機関区、紀伊田辺機関区、浜田機関区、津和野機関区、直方機関区、大分機関区に配置され、根室本線、横黒線(現・北上線)、磐越東線、紀勢本線、山陰本線、山口線、筑豊本線、伊田線、久大本線などで使用された。その後、機関車需給の変化、電化やディーゼル化の進行などに伴って一部は転属し、1966年(昭和41年)から廃車が始まった。最後に残ったのは、若松機関区に配置され筑豊本線で石炭輸送に使用されていた数両であった。最終廃車は1974年(昭和49年)8月廃車のD60 61だった。
優等列車については専ら補機(筑豊本線)での運用だったが、横黒線(現・北上線)で使用されていた本形式は、東北本線が不通になった際に奥羽本線経由で同線の迂回運転を行った特急・急行列車を単機・重連で牽引する機会があり、20系ブルートレインを牽引している姿がファンによって撮影されている。
なお、当初の予定した9600形の代務は、横圧の大きさから入線できない箇所があることや曲線で異常走行をすることが判明したため、[4]、入線には軌道強化が必要となり、昭和30年度に発注済みであった10両をもって改造は打ち切られ[5]、9600形が使い続けられることになった。
新旧番号照合表


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保存機
以下の4両が保存され現存する。鉄道博物館等に保存されたものや動態保存機はなく、いずれも自治体に貸与し公園・公共施設等に設置しての静態保存となっている。筑豊本線使用機が最後まで残ったことから、保存は福岡県周辺に集中する。
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脚注
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