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阪元純熈

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阪元 純熈(さかもと すみひろ、天保14年5月15日1843年6月12日) - 大正3年(1914年5月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。名は鄭介愛之丞などとも称した。薩摩藩出身。坂元純煕とも。

概要

阪元純熈は薩摩藩士として生まれ、父・阪元純陽は藩の兵具奉行・営繕奉行などを務めた重臣で、御小姓から一代小番に昇った人物である[1]。純熈はその長男で、弟の盛昌・俊一とともに戊辰戦争へ出征した[1]

明治3年(1870年)、諸藩視察にあたる際、西郷隆盛に教訓を乞い、のちに「阪元純煕への教訓」として知られる西郷直筆の書簡を与えられた[2]。純熈の妹・徳は岩山家に嫁ぎ、西郷隆盛夫人・糸と義理の姉妹関係となったことでも知られる[1]

政局では征韓派に属し、明治7年(1874年)1月、朝鮮問題を理由として旧参議の復職を三条実美に強硬に要求した[3]。その後、警保助として司法省警保寮に勤務していたが、西郷隆盛の下野に伴い、羅卒300名を率いて鹿児島へ引き上げている[4]

明治7年(1874年)の台湾出兵では、西郷従道が兵を求めたことから、西郷隆盛は純熈を隊長格として士族兵約300名を編成し派遣した[1]。別資料では、阪元が率いた兵が800名とする記録もあり、いずれも台湾において戦功を挙げたとされる[5]

西南戦争では政府側に属し、純熈と弟の俊一(海軍少尉)が官軍に従軍した一方、盛昌(陸軍中尉)と権吉(陸軍軍曹)は西郷軍に参加して戦死した[6]。純熈は第四旅団参謀として岩崎谷の陥落に参加し、のちに西郷隆盛ら諸将の検屍に立ち会った[6]。純煕は見つかった西郷の首を桶で洗い山縣有朋へ渡したと伝わる。弟俊一は、別府晋介の刀を戦利品として持ち帰り、阪元家に伝わったという[6]

軍歴では、明治15年(1882年)3月11日に歩兵第13連隊長、明治19年(1886年)4月23日に名古屋鎮台参謀長に進み、同年に陸軍大佐となった[7]。明治21年(1888年)5月14日には第三師団参謀長、明治22年(1889年)9月11日には第六師団参謀長となった[7]

明治27年(1894年)6月6日に休職となり、同年11月23日には留守歩兵第6旅団長に補され、翌明治29年(1896年)1月27日には陸軍少将へ昇進し、同日付で予備役となった[7]

晩年は娘・福子の夫である海軍大将日高壮之丞の家に身を寄せ、大正3年(1914年)5月8日に日高邸で死去した[6]。墓所は元々鹿児島市の浄光明寺(南洲墓地)にあったというが、戦後大阪に移転された可能性があるという。

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脚注

参考文献

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