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大江忠成

鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府 評定衆。大江広元の五男。従四位下、蔵人、左近将監、左衛門尉、刑部権少輔。宣陽門院判官代。熱田神宮大宮司。宝治合戦への加担を問われ辞任。続古今 ウィキペディアから

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大江 忠成(おおえ の ただしげ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府評定衆大江広元の五男。別名海東忠成(かいとう ただしげ)。

概要 凡例大江忠成, 時代 ...

生涯

広元から尾張国海東郡を与えられ、海東を名乗る。尾張国熱田神宮大宮司の養子に入り、承元2年(1208年)大宮司となった[3][4]承久2年(1220年)熱田神宮の大宮司職を辞した[3]が、承久3年(1221年)嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となった[5]

1245年寛元3年)、鎌倉幕府の評定衆となり、鎌倉幕府の政務に携わった。しかし、1247年宝治元年)の宝治合戦で、兄の毛利季光が三浦氏側に味方して敗死したため、それに連座して評定衆を罷免された[6]

1265年(文永2年)、京都において死去[1]

脚注

参考文献

関連項目

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