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太田黒伴雄

幕末・維新期の志士、神風連の乱の首領 ウィキペディアから

太田黒伴雄
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太田黒 伴雄(おおたぐろ ともお、天保6年(1835年) - 明治9年(1876年10月25日)は、日本士族神風連の乱の首領、指導者。幼名は鉄兵衛。

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太田黒伴雄

来歴

1835年天保6年)、肥後国飯田熊助の三男[1]として熊本被分町(現・熊本市)に生まれる[2]。大野家に養子に入り大野鉄兵衛と称した。その後、江戸にて朱子学陽明学を学ぶ。帰藩後、林桜園より国学神道の手ほどきを受け、尊王攘夷の思想を深めた。

新開大神宮の太田黒伊勢守に入婿し、姓名を太田黒伴雄と改め、神官となる[3]。立派で大柄な太田黒は、宮部鼎蔵轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。

1876年明治9年)、明治政府の出した廃刀令に激怒して加屋霽堅斎藤求三郎ら、約170名とともに、神風連の乱を起こすが銃弾を受けて重傷を負い、法華坂で義弟の大野昇雄介錯により果てる。享年42。1924年大正13年)、正五位を贈られた[4]

和歌

  • おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため
  • 天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな
  • かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ

脚注

参考文献

関連図書

外部リンク

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