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大羽進
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大羽 進(おおば すすむ、1940年9月19日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
経歴
中学時代から王貞治と対戦しており、地区大会決勝で対戦するも敗北[1]。日本大学第一高校に進学。2年生時にはエースとして1957年夏の甲子園都予選決勝に進み、早稲田実業高の王と投げ合うが完封負けを喫する。しかし翌1958年春季関東大会都予選では早実高を完封、関東大会決勝まで進むが銚子商に惜敗した。夏の都予選では4回戦で敗退、甲子園には出場できなかった。王とは3度対戦したが1勝2敗であった[1][2]。
高校卒業後は明治大学に進学する予定だったが、家業のメッキ工場が倒産したこともきっかけになって急遽進学をとり止め、プロ入りする事を決意し1959年に広島カープへ入団した[1][3]。
ライバルの王が1年目から活躍する中で大羽は伸び悩んでいたが、1964年5月5日の巨人戦で大羽は先発として登板。この試合は王の5打席連続本塁打の成否がかかっており、広島が初めて王シフトを敷いた試合だった[1]。大羽も打席の王に対して内角球で真っ向勝負し、見事に王をファーストライナーに打ち取り王の日本記録達成を阻止した[1]。同年8月20日の巨人戦では、5試合連続で本塁打を打っていた王の記録を止め、初完封勝利した[1]。
1965年はひざを負傷するアクシデントに見舞われながらも[4]フォーム改造に着手し、「フラミンゴ投法」と呼ばれたフォームで翌年には13勝を挙げオールスターゲームにも初出場した[1]。1972年には金銭トレードで東映フライヤーズに移籍し、この年限りで引退した[1]。なお巨人戦では通算19勝と滅法強く、巨人キラーとしても活躍した[1]。
引退後は不動産会社勤務を経て、都内で兄とともに家業の金属加工関係の会社を再建し経営、60歳まで勤務した[1][3]。その後は母校・日大一高野球部で投手の指導をしている[3]。大羽のかつてのライバル・王とは、王の母校・早実の後輩を通じて携帯の電話番号を交換したもののほとんど交流は無いという[3]。
オーバースローからシュート、カーブ、スローカーブ、フォークボールなどを武器とした。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1966年)
背番号
- 40 (1959年 - 1960年)
- 29 (1961年 - 1971年)
- 47 (1972年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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