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大舘晴光
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大舘 晴光(おおだち はるみつ、生年不詳 - 永禄8年4月28日(1565年6月6日))は、戦国時代の武将。室町幕府幕臣。大舘尚氏(常興)の子。
生涯
家の慣例により、室町幕府の第12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、晴光と名乗る。のちに、弟の藤安(ふじやす)と嫡男の輝光[1](てるみつ)も第13代将軍・足利義輝(初め義藤、義晴の子)から偏諱の授与を受けている。
大舘氏(「大館」とも表記する)は足利氏と同族の新田氏支族であり、代々室町幕府の重職を務めてきた家柄で、父は有職故実の専門家として知られていた。また、姉(または妹)が将軍・義晴の側室であったことから足利将軍家の覚えもめでたく、永禄2年(1559年)には従四位下に叙せられ、左衛門佐・上総介・陸奥守などを歴任した。
晴光は将軍・義輝が最も重要視していた越後の長尾景虎(上杉謙信)との交渉の責任者であり、永禄2年(1559年)に景虎が上洛した際には接待役に任じられている。また、成功はしなかったものの、義輝の命により景虎と北条氏康との和睦交渉の仲介役にあたった。また、永禄6年(1563年)6月に最上義守・義光父子が上洛した際にも、申次「を務めている[2]。
永禄8年(1565年)4月28日、晴光は死去した。その死の直後に永禄の変が発生し、晴光の後を継いだ筈の嫡男の輝光は、足利義栄に仕えたことが確認できるもの[3]の、その後の消息は不明である。そのため、織田信長に奉じられた足利義昭が将軍になると、輝光ら大舘一族の多くが追放されて、そのまま没落したとみられている[4]。
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脚注
参考文献
関連項目
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