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太田資顕
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太田 資顕(おおた すけあき、? - 天文16年10月9日(1547年11月21日))は、戦国時代の武将。別名は資時(すけとき)。左京亮。信濃守。号は全鑑(ぜんかん)。太田資頼の嫡男。太田資正の兄。妻は成田親泰の娘。娘は遠山藤九郎及び上杉憲盛正室。
父や弟と共に扇谷上杉氏に仕えた。1533年、父の隠居により家督を相続した。主家の衰退に伴い後北条氏との関係を次第に強めていき、天文15年(1546年)3月には北条氏に「逐日入魂」していたとされ、その直前には北条氏に仕えていた太田景資(康資の庶兄)と内通を試みて主君・上杉朝定の河越城攻略への参加に応じなかった。同年4月、河越夜戦で上杉朝定が北条氏康に敗れて戦死したため、正式に後北条氏の家臣となった。また、臨済宗を篤く信じていたといわれる。
天文16年(1547年)10月9日死去。享年は不詳だが、没時にはすでに孫がいた[1]。男子がいなかったため、家督は弟の資正が継承した。
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脚注
参考文献
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