トップQs
タイムライン
チャット
視点

宇土城

日本の城 ウィキペディアから

Remove ads

宇土城(うとじょう)は、熊本県宇土市にあった日本の城。別名城山鶴城ともいう。同市にあった中世期の宇土城である宇土古城についても併記する。

概要

宇土城は、小西行長によって現宇土市古城町に築かれた平山城である。3重の天守が建てられたとされるが、小西行長が関ヶ原の戦いに敗れたあとは加藤清正の所有するところとなった。清正は、宇土城を自身の隠居城として改修を加えたが、清正の死後は廃城となった。その際、宇土城の天守は熊本城へ移築され、宇土櫓となったという伝承があるが、1927年昭和2年)に実施された宇土櫓の大規模修理に伴う調査では移築の痕跡がなかったとされている[1]

1632年(寛永9年)、加藤氏の改易によって肥後国は細川氏の領するところとなり、2代藩主細川光尚は1646年(正保3年)、従兄弟の行孝へ3万石を分与して宇土へ置いた(宇土支藩)。宇土藩は支藩であったため城は持たず、藩庁である宇土陣屋は現在の新小路町に置かれ、城地は荒蕪地とされた。

現在、後述する中世期の宇土古城跡(宇土市神馬町)は国の史跡に指定されており、歴史公園「史跡宇土城跡」として、建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元整備されているほか、古墳時代の箱式石棺墓が数基確認できる。

近世期の宇土城跡は、本丸跡が城山公園として整備され、石垣と堀の痕跡が残っているが、公園整備に際して旧状と異なる石積みが実施されたため、遺構としての石垣でない箇所も少なからずある。現存する石垣と堀のうち、公園の敷地内に残る部分については間近に見ることが可能ではあるが、遊歩道など特に整備されているわけではなく、一部は民有地も存在しており、旧城域を一周することはできないので注意を要する。二の丸跡は市営墓地となっており、三の丸跡は宅地化が進み、また学校の敷地となるなど開発が進んでいて、往時の面影を留めるところはほとんどない[2]

なお公園内に立っている小西行長の銅像は、行長をイメージして制作された架空の肖像だが、豊臣政権下の海の司令官として世界(海)に目を向けているため宇土市街には背を向けている[3]

Remove ads

歴史

参考文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads