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小山朝長
鎌倉時代の武将 ウィキペディアから
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小山 朝長(おやま ともなが)は、鎌倉時代の武将。下野国守護、小山城城主[1]。
生涯
文治4年(1188年)、小山朝政の嫡子として生まれる[2][1]。通称は又四郎[3]。官職は左衛門尉[2]。初名は政義[1]。弟の朝村(政村)は薬師寺郷を領して薬師寺氏の祖となった[4]。
建久4年(1193年)8月、鶴岡で奉納された流鏑馬の射手として史料に現れる[5]。
承久元年(1219年)1月、将軍・源実朝が殺され、同3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を諸国にくだした(承久の乱)[6]。朝長は、武田信光、小笠原長清、および叔父・結城朝光とともに東山道大将軍の一人として従軍した[7][8]。6月5日、東山道軍は大井戸の渡し(現・可児市)で京方を破り、東海道軍と合流し、6月15日入京した[9]。
乱後、幕府は、京方の公卿の中心人物を有力御家人に預け、鎌倉に護送させている[10]。7月、朝長は、命によって葉室宗行を駿河国藍沢原で斬首した[11][8]。
乱平定の恩賞として、尾張国海東荘を与えられたと推測される[12]。また、父から家督や所領を譲られている[3]。
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系譜
脚注
参考文献
外部リンク
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