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小松暢

日本の女性編集者 (1918-1993) ウィキペディアから

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小松 暢(こまつ のぶ、1918年 - 1993年11月22日)は20世紀の日本の女性。漫画家やなせたかしの妻で、結婚前は編集者を務めた。「小松」は1度目の結婚以降、やなせとの再婚までの間に名乗った姓で出生時の姓は「池田」[1]

来歴

大阪府大阪市に生まれる[2]。父は現在の高知県安芸市 出身で、鈴木商店に勤務していた[2]。幼い頃は高知市で暮らしており、高知県立第二高等女学校に通っていた[3]。大阪で旧制阿部野高等女学校(現:大阪府立阿倍野高等学校)を卒業した[4][5]。女学校時代は「韋駄天おのぶ」の異名を持つ短距離ランナーとして知られたという[1]

女学校を卒業後に上京して、日本郵船に勤務。そこで高知出身の小松総一郎と出会い、結婚。新婚早々、夫は徴兵により召集され、暢は終戦を高知で迎えるが夫は帰還後に病死[1]した。

夫と死別後は高知新聞社に入社し、『月刊高知』の編集者となる。1946年に高知新聞が31人の応募者から採用した初の女性記者2人のうちの一人だった[2][4][6]。同じ部署に数ヶ月後に入社した やなせが配属され、それが二人の出逢いとなった[1][7]。やなせの証言では高知新聞で前の席が小松で、すぐに好きになったという[8]。小松は「代議士の秘書になる」という理由で退社して上京。その約1年後にそれを追う形で、やなせも東京に上京して結婚した[8]

漫画家を目指す やなせに「なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせるから」と話し、やなせも後年「仕事以外は全て カミさんに頼っていた」と回想した[6]

それいけ!アンパンマン』がテレビアニメとして放送されたのは1988年だが、やなせと暢が二人で新聞の取材を受けた際は記者に「人生を振り返ることはあるか」と尋ねられた暢は「ないこともないですけれど、振り返ったって戻ってきませんでしょ。だから、いつも前向き」 と答えている[9]

1988年12月に乳がんが発覚し手術したが、余命3ヶ月と診断されていた[10]。1993年11月22日、癌のため死去[6]

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人物

ハチキンおのぶ」「韋駄天おのぶ」のあだ名があった[11]。非常に男勝りな性格で、女だと思って馬鹿にされたと思ったら「女だと思って、バカにするんじゃないわよ!」と反論した。雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と言っていた[12]

お茶の師範として弟子がいた[13]

登山が趣味であり、大雪山系を縦走したこともあった[10]

後述の連続テレビ小説あんぱん』の脚本を担当する中園ミホによると、小松はやなせに「正義は逆転することがある。信じがたいことだが。じゃあ逆転しない正義とは何か? 飢えて死にそうな人がいれば、一切れのパンをあげることだ」の言葉で励ましていた[要検証]という[11]。家庭では、やなせから「おぶちゃん」と呼ばれていた[14][15]

小松暢を題材とした作品

脚注

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