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島袋俊一
日本の農学者・歌人 ウィキペディアから
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島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 - 1965年9月17日)は、日本の植物病理学者・菌学者・教育者。歌人としても活躍し、小林 寂鳥(こばやし じゃくちょう)と号した[1]。
経歴
1924年に旧制鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)を卒業後、名瀬実科高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身の一つ)、鹿児島県第二師範学校の教員を務める[3]。1937年に帰郷して沖縄県立八重山農学(現在の沖縄県立八重山農林高等学校)の初代校長を務め、1944年からは沖縄青年師範学校の校長を歴任した[1][3][4]。
1950年に琉球大学が開学すると同大学の教授に就任、1959年に農学部長、学部改組により農家政学部長、農家政工学部長を歴任した[1][2][3]。1953年より南西諸島のサビキン目菌類についての研究に着手、1960年4月から6月にかけての3ヶ月間、東京教育大学(現在の筑波大学)に内地留学し、平塚直秀の指導のもと、その種類と分布について研究した[4]。1960年に「琉球列島における銹菌フロラに関する研究」を北海道大学に提出して農学博士の学位を取得し[5]、翌年1961年には「Flora of Rust Fungi in the Ryukyu Archipelago」を発表している[2][6]。
1964年7月1日、琉球大学学長に就任し[7]、琉球大学医学部や大学院新設計画を進めた[1]。しかし、学長在職中の翌年1965年9月17日、心臓疾患のため那覇市の那覇病院で急逝した[4][3]。
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脚注
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