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小林玉枝
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小林 玉枝(こばやし たまえ、明治44年(1911年)1月9日 - 昭和60年(1985年)1月22日)は、日本の九州系地歌箏曲演奏家。東京出身。昭和期に活動し、「玉琴会」を主宰した。祖母は箏曲家の小出とい[1]。
生涯
明治44年(1911年)1月9日、神戸に生まれる。父は中村直吉、母は清香。同年の新年歌初めのお題「寒月梅花を照らす」にちなみ「玉枝」と命名された。祖母の小出といの門下で育ち、5歳から中村カヨに箏を、9歳で加藤柔子に三弦を学んだ。お茶の水高校卒業[2]。
大正15年(1926年)、師・加藤柔子の勧めにより宮城道雄に入門し、「春の夜」「水の変態」など宮城自身の新作を直接教授された。宮城は発表会に玉枝を出演させようとしたが、加藤側が「加藤門下」と明記することに固執して対立。昭和3年(1928年)に宮城のもとを離れた。以後、加藤は教えることがつき京都から珍しい楽曲を取り寄せて玉枝の教材とした[3]。
昭和5年(1930年)、琴古流宗家竹友社を率いる川瀬順輔の妻・川瀬里子に入門。当初は加藤柔子との確執があったが、川瀬が直接電話で強引に説得し、正式に門下入りが実現した。以降、玉枝は川瀬の薫陶を受けて演奏・教育の両面で頭角を現す。中野区に転居後、生田会25人家元の一人として生田流地唄三絃・箏を教授し、NHK放送にも出演。川瀬順輔らとともに多くの組曲演奏を行った[4]。
昭和42年(1967年)ごろより「玉琴会」を主宰。新宿区戸塚の自宅で指導を行い、門弟の水準は高く、静かな指導姿勢の中に厳密な芸が息づいていたと伝えられる。昭和49年(1974年)6月の竹道会における《楓の花》の演奏は代表的名演とされる。尺八は青木俊輔、低音箏は弟子の大塚信江が担当したが、途中で音が一瞬途絶した際も、玉枝は微動だにせず流れを受け入れ、尺八を包み込むような妙音を響かせたと評されている [5]。
昭和54年(1979年)に次女一家とともに東京都小金井市に転居。晩年は扁平上皮癌を患い、病床でも日記を綴った。昭和60年(1985年)1月22日死去。74歳。
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参考文献
- 「天才箏曲家小林玉枝 : その生涯と芸術」(1985年、東天社)
脚注
外部リンク
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