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小池家継

日本の美濃国の武士・国人 ウィキペディアから

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小池 家継(こいけ いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士国人森氏森可成森長可)の家臣美濃国今城[1]家紋は「梅に鶯(うぐいす)」[2]天正10年(1582年)に起きた本能寺の変を機に金山城主の森氏への反抗を開始したが、鎮圧されて森氏の命により今城を退去し、帷子郷帰農した[3][2][4]

概要 凡例小池家継, 時代 ...

略歴

小池氏は現在の岐阜県可児市の南西部を支配していた国人家継の家系は鎌倉時代後鳥羽天皇北面武士であった小池貞利、小池貞好小池貞宗らの系統といわれている。[要出典]

小池家継は天文年間(1532年-1555年)において愛宕山(あたごやま)に今城を築城した[3]。その後、森可成家臣となった後に森長可家臣となった。各々は順に森蘭丸の父と兄である。

織田信長は中濃平定戦のあと猿啄城家臣河尻秀隆に与え、烏峰城を森可成に与えた。森可成は入城に際し烏峰城を金山城と改称したという。そのほか、久々利氏大森城主奥村又八郎、塩河・室原の可児秀行(可児六郎左衛門秀行)、今城主の小池家継(小池刑部藤原之家継)らが織田信長に帰順したとされる[5]

天正10年(1582年)に本能寺の変が発生すると、いままで森氏に従っていた東濃の武将は反抗するようになった。家継も同調し反抗したが、すぐに鎮圧された。その後、森長可の立ち退き命令により今城を立ち退き、帷子郷帰農したといわれている[3][4]

現在の今城址は可児市「山城連絡協議会」有志らにより簡易な公園として整備され、誰でも容易に訪れることが可能である。

今城址はからに突き出た舌状台地上にあって、一辺が30メートル程の平地がある。北側の中腹に屋敷跡といい伝えられている平地(今城二の丸)があって、今城三の丸には五輪石(五輪塔)が数基あって小池氏の墓といわれている。その墓には小池家継の墓も含まれる[3]

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脚注

外部リンク

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