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小田倉の戦い

日本の戦国時代の戦い ウィキペディアから

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小田倉の戦い(おだくらのたたかい)は、永禄3年(1560年)に、陸奥国白河郡小田倉にて発生した合戦である。

概要 小田倉の戦い, 交戦勢力 ...

概要

発端

小田倉の戦いの原因については、次のような説が挙げられている。

  • 蘆名氏が那須地域獲得のため、結城氏と共に侵攻した[1]
  • 結城氏が、対立関係にあった那須氏を討つため、蘆名氏の援軍を受けて侵攻した[2]
  • 那須氏が勢力拡大を画策し侵攻した[3]
  • 陸奥国への進出を目論んだ佐竹義昭に、那須氏が呼応した[4]

しかし、いずれも臆測の域を出ず、はっきりした原因は不明である。

合戦の経過

数で劣る那須勢は大変な苦戦を強いられ、総大将であった那須資胤も負傷し、一時は自刃を覚悟するほどであったという(那須記)。しかし、有力家臣である大関高増らの軍勢が駆けつけたことにより、事なきを得た。

那須記によれば、その後攻勢に出た那須勢は、結城勢を追い立て革籠原(福島県白河市白坂)まで攻め入ったとされる。しかし、那須記は江戸期に編纂されたものであることから、信憑性は低いとの指摘もされている[5]

戦後

資胤は戦後、小田倉での苦戦は高増らの働きが不十分であったためと非難した。それを受けた高増は、上那須衆[6]を率いて資胤から離反し、その後7年間にわたって主家との抗争を繰り広げることとなった。

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注釈

参考文献

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