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山本実彦

日本のジャーナリスト ウィキペディアから

山本実彦
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山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年明治18年〉1月5日 - 1952年昭和27年〉7月1日)は、日本ジャーナリスト改造社社長。雅号亀城

概要 山本 実彦, 生年月日 ...
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経歴

鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身[1]。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校[2]自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。

1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業[注 1]。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。この間、1912年(明治45年)に東京市会議員に選出された[3]

1919年(大正8年)には改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌となる。また1927年(昭和2年)、世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった『現代日本文学全集』全63巻を刊行し、それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった。1930年(昭和5年)、立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長に就任。三木武夫を入党させるなどしたが、公職追放となる[4]1951年(昭和26年)追放解除[5]。翌1952年(昭和27年)7月死去。墓所は青山霊園(1イ8-3)。総合雑誌『改造』は山本亡きあと、3年で労働争議の末、廃刊となる。

アルベルト・アインシュタインバートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した。

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著書

  • 『政府部内人物評』政府研究会 1909
  • 『政界の寧馨児』博文館 1910
  • 『我観南国』東京堂書店 1916
  • 川崎正蔵』吉松定志 1918
  • 『人を見よ山を見よ』吉松定志 1918
  • 『満・鮮』改造社 1932
  • 『小閑集』改造社 1934
  • 『蒙古』改造社 1935
  • 『支那』改造社 1936
  • 『支那事変 北支の巻』改造社 1937
  • 『人と自然』改造社 1937
  • 『大陸縦断』改造社 1937
  • 『興亡の支那を凝視めて』改造社 1938
  • 『渦まく支那』改造社 1939
  • 『新欧羅巴の誕生』改造社 1940
  • 『歐洲の現勢と獨英の將來』改造社 1940
  • 『蘇聯瞥見』改造社 1941
  • 『巨いなる歩み』改造社 1942
  • 『世界文化人巡礼』改造社 1948

脚注

参考文献

外部リンク

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