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崔遠
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崔遠(1910年 - 没年不詳)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人。高麗人(朝鮮系ソ連人)で、ソ連軍第88独立狙撃旅団に勤務。解放後は朝鮮人民軍の初代偵察局長、軍事科学局長などを務めたが、1958年に粛清され、消息不明となった。ソ連派。
略歴
1910年、沿海州に生まれる[1]。1942年、モスクワ偵察学校を卒業したのち、ハバロフスク近郊のヴャツコエに駐屯する第88旅団に派遣され、金日成らとともに服務した[2]。
崔遠はもともとソ連軍上級中尉として極東戦線情報局長ナウム・ソルキン少将の下で情報任務に当たっており、第88旅団内で金日成が果たした役割をよく知っていた。金日成は表向き第1大隊長であると同時に内務人民委員部(NKVD)の協力者でもあった[3]。同僚隊員の言動をソルキン少将や極東戦線司令官のマクシム・プルカーエフ大将に密告してソ連軍関係者の信頼を獲得し、彼らはモスクワに金日成を推薦した。これが後にスターリンによって北朝鮮の指導者に抜擢された背景だったという[4]。
解放後、朝鮮半島北部に帰還し、朝鮮人民軍創設に際して偵察局長(大佐)に任命された[5][6]。朝鮮戦争当時は総佐(准将級)で、人民軍のソウル占領後、西大門区滄川洞のオランダ領事館2階に移って偵察局の職務を遂行した[7][8]。
米軍記録によれば、朝鮮戦争後期の1952年7月には第5軍団(軍団長:方虎山中将)隷下の第46師団長(少将)を務めている。この師団は1951年11月に前線から後退してきた第5軍団へ所属が変更され、1952年7月当時、元山北方、咸興地域の海岸防衛に当たっていた[9]。その後、総参謀部軍事科学局長(少将)となったが、1958年頃、思想検討により粛清、投獄され、以後消息不明になった[2]。
崔遠は、軍事科学局長に在任中の1958年、張平山らの延安派軍幹部が企てたクーデターに関与したことで粛清されたという説もある[10]。しかし、ソ連派に属する崔遠が延安派のクーデター未遂に加担したのかどうかは確認が必要なようである。
1959年7月に粛清されて江界の監獄に収容された人民軍少将カン・スボン(筆名呂政)の証言によれば、その当時、総参謀部武器器材供給局副局長パク・ビョンス、総参謀部軍事科学局長崔遠、第6師団長コ・ギファン、第3軍団通信部長チェ・ミョンチョル、職業総同盟軽工業委員長リ・ソニら5名が同房に収容されていたという。これが崔遠について知られている最後の情報である[11]。
ソ連派の多くは地位を追われた後にソ連へ「帰国」したが、崔遠はソ連に戻ることができず、獄死または刑死した可能性が高いものとみられる[12][13]。
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参考文献
- 김국후『평양의 카레이스키 엘리트들 : 스탈린이 급파한 고려인 500명의 슬픈 역사』한울、2013年。ISBN 9788946060937。
脚注
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