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広州 (広東省)
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魏晋南北朝時代
226年(黄武5年)、呉により交州東部の南海・蒼梧・鬱林・高涼の4郡をもって広州が分割設置された[1]。これは交州の権力者であった士燮の死後、呉が実効支配を進めるために、交州東部を分割したものである[2]。そのため、反抗した士燮一族が殺害されると、まもなく広州は廃止されて、交州に統合された[3]。264年(永安7年)に交州で呂興が反乱を起こすと、広州は再設置された。279年、広州で郭馬が反乱を起こし[4]、呉の滅亡の引き金になった。
晋のとき、広州は南海・臨賀・始安・始興・蒼梧・鬱林・桂林・高涼・高興・寧浦の10郡を管轄した[5]。
南朝宋のとき、広州は南海・蒼梧・晋康・新寧・永平・鬱林・桂林・高涼・新会・東官・義安・宋康・綏建・海昌・宋熙・寧浦・晋興・楽昌の18郡を管轄した[6]。
南朝斉のとき、広州は南海・東官・義安・新寧・蒼梧・高涼・永平・晋康・新会・広熙・宋康・宋隆・海昌・綏建・楽昌・鬱林・桂林・寧浦・晋興・斉楽・斉康・斉建・斉熙の23郡を管轄した[7]。
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隋代
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、広州の属郡は廃止された。601年(仁寿元年)、広州は番州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、番州は南海郡と改称され、下部に15県を管轄した[8]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
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唐代
621年(武徳4年)、唐が蕭銑を滅ぼすと、南海郡は広州と改められた。742年(天宝元年)、広州は南海郡と改称された。758年(乾元元年)、南海郡は広州の称にもどされた。広州は嶺南道に属し、南海・番禺・増城・四会・化蒙・清遠・懐集・洊水・湞陽・東莞の10県を管轄した[9]。
宋代
北宋のとき、広州は広南東路に属し、南海・番禺・増城・清遠・懐集・東莞・新会・信安の8県を管轄した。南宋のとき、香山県が加増された[10]。
元代
1278年(至元15年)、元により広州は広州路と改められた。広州路は江西等処行中書省に属し、録事司と南海・番禺・増城・清遠・東莞・香山・新会の7県を管轄した[11]。
明代以降
1368年(洪武元年)、明により広州路は広州府と改められた。広州府は広東省に属し、直属の南海・番禺・順徳・東莞・新安・三水・増城・竜門・香山・新会・新寧・従化・清遠の13県と連州に属する陽山・連山の2県、合わせて1州15県を管轄した[12]。
清のとき、広州府は広東省に属し、南海・番禺・順徳・東莞・従化・竜門・新寧・増城・香山・新会・三水・清遠・新安・花の14県を管轄した[13]。
脚注
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