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後堀河院民部卿典侍

鎌倉時代前期の女流歌人 ウィキペディアから

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後堀河院民部卿典侍(ごほりかわいんのみんぶきょうのすけ、1195年建久6年)- 没年不詳)は、鎌倉時代前期の女流歌人藤原定家の娘、藤原因子(ふじわらのいんし/よるこ)。母は藤原実宗の娘[* 1]

経歴

1205年(元久2年)より後鳥羽院に出仕。承久の乱以降は、安嘉門院に出仕。1229年(寛喜元年)、九条竴子(後に藻璧門院)付の女房として後堀河天皇の内裏に出仕し、後に典侍となる。1233年(天福元年)出家。『新勅撰和歌集』以降の勅撰集歌合家集等に作品を残している。

逸話

  • 1205年(元久2年)、十歳頃に日吉社百日の参籠を行っている[1]。この後、後鳥羽院への出仕を始めるので、そのための願掛けをしたと考えられている[2]
  • 亡き藻璧門院が人の夢に現れて歌を詠むというできごとがあった[* 2]。また、同じ女院の夢告によって、女房達が嵯峨の釈迦如来に参詣するようになったと、父定家に報告している[3]

作品

勅撰集
さらに見る 歌集名, 作者名表記 ...
定数歌歌合
さらに見る 名称, 時期 ...
私家集
  • 『民部卿典侍集』
    • 続群書類従 16下 和歌部 第四四九、私家集大成3(契沖筆三手文庫蔵本)等。
    • 83首。主人だった藻璧門院を失ったことによる哀悼歌集的な性格の小歌集。

脚注

参考文献

関連項目

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