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徳川實枝子

日本の皇族、華族 ウィキペディアから

徳川實枝子
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徳川 實枝子(とくがわ みえこ、1891年明治24年〉2月14日 - 1933年昭和8年〉4月25日)は、明治期から昭和期の日本皇族華族。旧名は實枝子女王。略字体の「実枝子」表記される場合もある。

概要 實枝子女王, 身位 ...

人物

要約
視点

生い立ち

1891年(明治24年)2月14日午前2時30分、有栖川宮威仁親王同妃慰子の第2女子として誕生し、尋いで實枝子(実枝子)女王と命名された[1]

1904年(明治37年)5月13日、徳川慶喜公爵の嫡男・慶久との婚約が内定(内約)した[2]。この縁談は伯父・有栖川宮熾仁親王の勧めで、慶喜公も賛成したことでまとまった[3]。慶喜の母・吉子女王有栖川宮織仁親王の娘であり、實枝子の父・威仁親王も織仁親王の曾孫であったので、慶久とは共通の祖先をもつ遠縁の関係であった。

学習院は早々に退学し、以後は宮邸で教育を受けた[4]。中でも和歌は高崎正風に師事し、特に秀でていた[4]。書は母の慰子妃から有栖川流を伝授され、週に3、4時間は書の練習に励んだ[5]

1908年(明治41年)10月13日に縁組が勅許、10月27日に納采の儀を経て[6]、11月8日に、徳川慶久に降嫁した[7]。結婚に先立つ、同年4月に兄・栽仁王が20歳で早世し、有栖川宮家の直系は實枝子女王ただ一人となっていた。

降嫁後

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徳川家の家紋の入った留袖を着用した実枝子(撮影時期不明)

1908年(明治41年)12月に久能山東照宮での御廟臨時祭に参列した後、修善寺に立ち寄って新婚旅行を過ごした[8]。実枝子の容貌は良く、慶久の友人・杉村陽太郎は「慶久のやつ、うまくやったな」と言ったとされる[3]

慶久との間に、慶子(夭折)、喜久子慶光、久美子を生む[注釈 1]

1913年(大正2年)7月5日に、父・威仁親王が薨去。大正天皇の第三皇子・光宮宣仁親王が、実枝子の次女・喜久子(1911年〈明治44年〉生)との結婚も定められ[注釈 2]、有栖川宮家の祭祀を継承することになった。

貞明皇后とは旧知の間柄であり、度々御所に呼ばれては話相手やお稽古の相手を務めたという[11]

1922年(大正11年)、夫の慶久が急死(病死とも自殺とも言われる)。

1930年(昭和5年)2月4日、喜久子が高松宮宣仁親王と婚姻する。

1933年(昭和8年)、結腸癌を患い東京帝国大学医学部附属医院に入院する[12]佐世保からの帰途にあった喜久子妃にも電報で知らされた[12]。実枝子は食事を摂取できず、吐血している状態だったが、急行した喜久子妃に「貴女は宮家へ嫁がれた方」とすぐに帰るよう促した[12]。すでに末期の状態で開腹手術も受けたが、実枝子自身は回復すると信じており、喜久子は真実を告げたり遺言を聞きだすことができなかった[13]

同年4月25日に逝去した。喜久子は臨終に立ち会った外科の塩田広重博士や、内科の稲田龍吉博士に礼を述べた[13]。当時数え年23歳だった喜久子は実枝子の死の経験から、後年高松宮妃癌研究基金を創設した[13]。なお、宣仁親王と喜久子夫妻に子は無く、有栖川宮家の祭祀も絶えたが、有栖川流書道は常陸宮妃華子秋篠宮文仁親王に伝授されている。

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参考文献

  • 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861
  • 威仁親王行実編纂会『威仁親王行実』 上、威仁親王行実編纂会、1926年。全国書誌番号:43052156
  • 威仁親王行実編纂会『威仁親王行実』 下、威仁親王行実編纂会、1926年。全国書誌番号:43052156
  • 高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、1998年11月。ISBN 978-4120028397

脚注

関連項目

外部リンク

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