トップQs
タイムライン
チャット
視点

懐信可汗

ウィキペディアから

Remove ads

懐信可汗(かいしんかがん、拼音:Huáixìn Kĕhàn、? - 805年)は、回鶻可汗国の第7代可汗。氏は阿跌[1](エディズ:Ädiz)氏、名は骨咄禄(クトゥルグ:Qutluγ)。骨咄禄将軍(クトゥルグ・センギュン:Qutluγ säŋün)とも表記される。可汗号はテングリデ・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・クトゥルグ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä uluγ bolmiš alp qutluγ külüg bilgä qaγan)[2]であり、より懐信可汗の称号を加えられた。

生涯

骨咄禄はもと阿跌(エディズ:Ädiz)氏で、幼くして回紇の大首領に養われ、武義成功可汗の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国の相(宰相)となる。

貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去したが、彼に子がいなかったため、国人たちは骨咄禄を立てて可汗とした。骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。こうして薬羅葛氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まる。6月、は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗[3]の称号を授けた。

永貞元年(805年)、懐信可汗が死ぬと、唐は詔で鴻臚少卿の孫杲に臨弔させ、後継ぎを冊立して滕里野合倶録毘伽可汗とした。

可敦(カトゥン:皇后)

  • 咸安公主

懐信可汗とマニ教

回鶻可汗国内において、第4代可汗の武義成功可汗(在位:779年 - 789年)以来迫害を受けてきたマニ教であったが、懐信可汗の代でふたたび受容されることとなった。そのことはトルファン出土のウイグル文書U1に「803年の羊年にウイグルのブクク汗(懐信可汗)が高昌にまでやって来て、マニ教東方大司教区のトップである慕闍(モジャク)に会い、マニ教団第三位の高僧であるマヒスタクを3人もモンゴリアに設置することを相談した」とあることによってわかる[4]

脚注

参考資料

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads