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懐王の約
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懐王の約(かいおうのやく)は、中国の秦末の動乱期において、反秦勢力の盟主の楚の懐王(後の義帝)と諸侯との間で結ばれた戦後処理に関する盟約である。
この盟約は「先入定関中者王之(先に関中に入り、平定した者をその地の王とする)」という条件を定めており、劉邦が最も早く関中に入り、秦朝を降伏させたため、本来なら劉邦は関中の王に封じられるはずだったが、項羽と范増によって懐王の約は歪められ、劉邦は漢王に封じられた。
概要
始皇帝が崩御し、二世皇帝の胡亥の代になると秦朝の暴政に対して中国各地で反乱が続発した。多くの反乱軍の中でも楚の勢力は特に強大で、国家としての楚の復興のため、項梁によって懐王が擁立され、反秦勢力の盟主に立てられた。しかし、紀元前208年に項梁が敗死し、反秦勢力に動揺が生じた。懐王は士気を鼓舞し、秦滅亡の進程を加速させるため、諸将との間に関中の王権を競わせる約定を結んだ。これが「懐王の約」である。この約定は楚の将領のみならず、独立した軍閥の長などにも及び、懐王を盟主と認める他の自称諸王(韓王の韓成、魏王の魏豹、趙王の趙歇、燕王の韓広)も約定に了承した。
項羽は関中に攻め込むことを望んだが、懐王の老将たちは劉邦を「長者」と評価し、項羽は「残虐」と評価した。このため、懐王は劉邦にのみ関中攻めを命じ、項羽には宋義の副将として趙の救援に向かうよう命じた(鉅鹿の戦い)。
劉邦の勢力は反秦勢力の中では傍系の一党でしかなかったが、この約定に突き動かされ、最初に関中に入って秦の国都咸陽に到達し、秦王子嬰を降伏させて秦を滅ぼした。これにより劉邦は懐王の約の条件を達成した。
しかし項羽は、懐王に約定を果たす機会を後回しにされたことを恨み、「懐王という者は、我が一族の項梁が立てたに過ぎない。 天下を平定したのは諸将と私である」と主張し、懐王に「義帝」の尊号を贈りながらも公然と逆らうようになった。その後、鴻門の会を経て、項羽は軍功と軍事力を背景に「西楚覇王」を名乗り、自ら18人の将相を各地に分割して封じた(項羽十八諸侯)。劉邦に対しては危険視しながらも、諸侯との関係のために懐王の約にも背きたくなかった項羽は、范増と謀り、「巴蜀も関中の地である」として巴・蜀・漢中を治めさせた。
後に項羽は義帝から実権を奪い、殺害した。これによって大義名分を得た漢王劉邦は項羽と天下を争うことを決意し、楚漢戦争が勃発した。
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参考文献
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