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成海神社
名古屋市緑区にある神社 ウィキペディアから
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成海神社(なるみじんじゃ)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町にある神社。『延喜式神名帳』の尾張国愛智郡「成海神社」に比定される式内社。
祭神
- 主祭神
 - 日本武尊
 
歴史
要約
視点
『熱田太神宮御鎮座次第本紀』によれば、朱鳥元年(686年)、草薙神剣が熱田に還座(草薙剣盗難事件)された時に、日本武尊の縁由により創祀された10の神社のうちの一つという。創建当初は今より南の地、扇川に面した天神山に鎮座していたという。この天神山付近には鳴海廃寺があり、8世紀頃の複弁五葉半蓮華文軒丸瓦や軒平瓦が出土し、当社の神宮寺の遺構と推定されている。現在、鳴海廃寺の跡地には竹林山圓龍寺が建っている。
平安中期成立の『延喜式神名帳』には愛智郡「成海神社」と記載があり、これが当社を指していることが確実視されている。「成海」は鳴海の古表記で、奈良時代の『正倉院文書』や平安中期の『倭名類聚抄』に「愛智郡成海郷」の名がみえる。神階について、『尾張国内神名帳』熱田本は「従三位上 成海天神」、国府宮本は「正二位上 成海天神」としている。
応永元年、足利氏の安原宗範により根古屋城(鳴海城)が築かれ、当社は現在の乙子山に奉遷されたという。現在の城跡内(城跡公園の東)には境外社天神社が鎮座している。例祭では御旅所となる。安原宗範の侍女が寄進したという鏡が当社に残っているという。鳴海八幡宮は当社の別宮として扱われ、戦国期には今川義元らが当社と鳴海八幡宮に神田を寄進した記録がある。中世の栄えた時期には30余りの社家があったと伝わり、室町期の寛正年間の棟札や応永年間の祈年祭祝詞など中世の遺物が複数が残っている。
当社は、中世から近世にかけて東宮大明神などと称され、愛知郡鳴海村の氏神となっていた。熱田神宮の東に位置することから「東宮」の名がついたとされ、『尾張国地名考』によれば神鏡の古額に小野道風が書いたという「東宮日月少」の文字があるという。江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「鳴海村...氏神東宮大明神壱社 当村祢宜 藤太夫持分」とある。江戸期の時点では牧野家が代々神官を務めていた。鳴海八幡宮の神官であった久野家も当社の神官を兼任していたが、元禄13年(1700年)に牧野家と久野家が口論し、祭礼が分裂。以降は、当社と鳴海八幡宮は祭りなどを分かれて行うようになったという。
旧址天神山の南には天白川支流の扇川が流れており、往古は洲一帯に「鳴海潟」という浜があった。天神社には日本武尊が鳴海潟で詠まれたという御歌「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛(鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも)」を刻んだ石碑がある。その他、日本武尊は鳴海について4首の御歌を残されている。御歌にある「火高(大高)」とは尾張国造城館の所在地で、日本武尊の后である宮簀媛命が住んでいた。現在、同地には熱田神宮境外摂社氷上姉子神社がある。東征からの帰還の際には、日本武尊は鳴海潟から火高まで船で渡ったという。毎年10月10日(近年は同日に近い日曜日に開催)の例祭では、この神話に因み、御神霊を旧址に渡御し、木片一片を御船として扇川に流す御船流神事を行う。
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主な年中行事
- 2月節分の日:節分祭
 - 7月中旬:夏祭茅ノ輪神事
 - 10月第2日曜:鳴海祭
 - 10月第2日曜:例祭、御船流神事
 
境内外末社
- 神明社
 - 熊野日向社
 - 宝田社
 - 白山社
 - 山神社
 - 道祖祓島社
 - 御井社
 - 日割金刀比羅社
 - 今宮社
 - 氷上社・源大夫社合殿
 - 八幡社
 - 八劔社
 - 住吉社
 - 多賀社
 - 愛宕社
 - 風神社
 - 北野社
 - 子安社
 - 境外社:天神社
 - 東宮稲荷社
 - だるま塚
 
文化財など
など
ギャラリー
 ウィキメディア・コモンズには、成海神社に関するカテゴリがあります。
- 鳥居
 - 境内
 - 鳴海祭の山車曳き回し
 - 山車のからくり人形
 
交通
参考文献
脚注
外部リンク
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