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扶余神宮
日本統治下の朝鮮に創建予定だった神社 ウィキペディアから
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扶余神宮(ふよじんぐう)は、日本統治下の朝鮮・忠清南道扶余郡に創建予定だった神社である。造営の途中で日本の敗戦をむかえ、鎮座されることはなかった。
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扶余(古名は泗沘)は、日本と関係の深かった百済の最後の都があった地である。朝鮮総督府はこの地に扶余神宮を創建し、扶余を「神都」とすることを計画し[1]、1939年(昭和14年)6月15日に官幣大社として創立された[2]。祭神は朝鮮と関係の深い応神天皇・神功皇后(三韓征伐)および斉明天皇・天智天皇(白村江の戦い)とすることを予定していた。1943年(昭和18年)の鎮座を目指していたが、社殿の基礎工事がほぼ完了した程度で1945年(昭和20年)8月の敗戦をむかえ、11月17日に廃止された[3]。
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脚注
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