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撃ちてし止まむ
第二次世界大戦中の日本で用いられた戦意高揚のスローガン ウィキペディアから
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撃ちてし止まむ(うちてしやまん[1][2]、現代仮名遣いでは撃ちてし止まん)は、太平洋戦争中の大日本帝国で、戦意高揚のために多用されたスローガンの一つ[1][2]。
『古事記』に登場する、戦いの勝利を祈願する[1]久米歌に由来し、近代以降の日本語に訳すと、「(敵を)撃って戦いを止める」となり、即ち「敵を撃つまで戦いを止めない」という意味となる。
原典
『古事記』中つ巻に、東征した神武天皇が八十建と那賀須泥毘古を征伐する際に、戦意を鼓舞するために歌った久米歌の一節として登場する。
- 八十梟帥征伐の久米歌
- 長髄彦征伐の久米歌
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近代



1942年(昭和17年)4月に発売された『空の神兵』には、「撃ちてし止まぬ大和魂(だま)」とある。
1943年(昭和18年)に入ると、戦意高揚のプロパガンダの一環として、「撃ちてし止まむ」が用いられるようになった。情報局が発行した雑誌『週報』333号(昭和18年3月3日発行)は、「撃ちてし止まむ」の意味と意義について、1ページを割いて解説した[3]。
大東亜戦争を戦ひ抜く一億の決意を示す言葉として「撃ちてし止まむ」の合言葉が用ひられてゐますが、「撃ちてし止まむ」とは結局「撃たずば止まじ」すなはち殲滅しなければ止まないといふ意味です。
(中略)
一たび皇師を動かし給うた以上、たゞ敵米英の撃滅あるのみであります。皇民すべからく灼熱の火となつて米英を倒すまで戦つて戦つて戦ひ抜くべきであります。
(中略)
そして、「撃ちてし止まむ」の精神は、単に前線だけではなく銃後の生産戦に、総力戦に、一億国民の悉くに、今こそ「撃ちてし止まむ」の烈々たる気魄が要請されるのであります。
-『週報』第三三三号 P.23
同じく情報局が発行していたグラフ雑誌『写真週報』昭和18年3月10日号は、「撃ちてし止まむ」を題材に、戦地や生産現場、銃後の様子を特集した [4]。
撃ちてし止まむ
撃ちてし止まむ
撃ちてし止まむ
-「時の立札」 『写真週報』第二六二号 表紙見返し
出版社が発行していた一般の雑誌でも、『富士』や『少年倶楽部』(昭和18年3月号)、『婦人公論』(昭和19年3月号)などの表紙にあしらわれた。映画の冒頭に掲示されるスローガンも、それまでの「忠魂へ遺族援護の捧げ銃」から「撃ちてし止まむ」に変更された。
3月10日の第38回陸軍記念日のポスターには、星条旗とユニオンジャックを踏む陸軍兵士と戦車に、「撃ちてし止まむ」と描かれた(画:宮本三郎)。陸軍省はこのポスターを5万枚作成し、2月23日に全国に配布して3月10日に一斉に掲示するよう指示した。東京の日本劇場外壁には、銃を構える兵士と手榴弾を投げる兵士の写真(撮影:金丸重嶺)に「撃ちてし止まむ」と書かれた壁画が掲げられ、陸軍記念日当日には、壁画の前で軍楽隊によって『愛国行進曲』が演奏された。
詩人の杉浦伊作は、1943年に『撃ちてし止まむ』と題する詩集を発表した。同名の詩や神武天皇の御製、高村光太郎による詩序が収録されている。
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脚注
出典
関連項目
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