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敦粛皇貴妃
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敦粛皇貴妃(とんしゅくこうきひ、1690年代? - 1725年12月27日)は、清の雍正帝の側妃。姓は年氏。漢軍旗人の撫遠大将軍・年羹堯の妹。年羹堯は、皇位継承争いで雍正帝の擁立に大いに貢献した。
生涯
康煕50年(1711年)頃、雍親王の胤禛(のちの雍正帝)に嫁ぎ、側福晋(側室)となった。康煕54年(1715年)に雍親王の第4女を出産、その後康煕59年(1720年)に第7子・福宜、康煕60年(1721年)に第8子・福恵、雍正元年(1723年)に第9子・福沛を立て続けに出産したが、いずれも夭折した。
雍正帝の即位後、雍正元年(1723年)に貴妃に冊立された。雍正3年11月15日(1725年12月19日)、皇貴妃に進封されたが、同年11月23日(1725年12月27日)に病没した(年羹堯の失脚も同月であった)。敦粛と諡され、棺は田村殯宮に安置され、乾隆年間に泰陵の妃園寝に陪葬された。
逸話
- 『清宮詞』によると、皇貴妃となった年氏は謹慎であり、手紙は必ず雍正帝の検閲を受けた[1]。雍正帝はそれに満足した。
子女
- 皇四女 (1715年 - 1717年)
- 福宜 (1720年 - 1721年)
- 福恵 (1721年 - 1728年)
- 福沛 (1723年生没)
脚注
登場作品
関連項目
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