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新庄厚信

日本の政治家、銀行家 (1834-1903) ウィキペディアから

新庄厚信
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新庄 厚信(しんじょう あつのぶ、天保5年4月17日1834年5月25日[1] - 明治36年(1903年3月8日[2])は、岡山県権令岡山市長。通称は作右衛門、久左衛門。号は載庵[2]

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新庄厚信

経歴

岡山藩士奥坊主・友野久悦の二男として生まれ、同藩士新庄直虎の養子となった[2]尊王攘夷運動が盛んになると、諸藩の志士と交わった。1864年元治元年)の禁門の変の際には、藩命を奉じて長州藩に赴き、藩主毛利敬親の入京を思いとどまらせた。その後、幕府長州征討をおこすと、岡山藩の外交掛として斡旋に努めた。

1868年明治元年)、徴士権弁事となり、翌年に柏崎県権知事となった。1871年(明治4年)に岡山県参事となり、1873年(明治6年)には岡山県権令となった。同年職を辞すが、1874年(明治7年)に置賜県権令に任命され、五等判事を兼ねた。しかし1876年(明治9年)、置賜県の廃止とともに官を辞した。同年、国立銀行条例が制定されると、士族の生活安定のため、岡山に第二十二国立銀行を創設し、頭取となった。岡山紡績所の設立にも尽力[1]

その後、1889年、市町村制が施行されると、岡山市会議員、市参事会員に選出された[1]。さらに1890年(明治23年)には岡山市長に選出され、水害対策や教育事業に尽力した[3]。墓所は岡山市東山霊園。

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脚注

参考文献

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