トップQs
タイムライン
チャット
視点
新納克己
日本の外交官 ウィキペディアから
Remove ads
新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日 - 1971年〈昭和46年〉3月14日[1])は、昭和時代の日本の外交官、弁理士。第二次世界大戦中に、マニラ総領事や外務省通商局長を務めた。
来歴
鹿児島県鹿児島市出身[1]。新納家の養子になり[2]、1916年(大正5年)第三高等学校二甲卒業[3]。1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒業[4]。1921年(大正10年)4月、鉄道省雇となり、同年11月、高等試験行政科試験に合格[1]。同年12月、外務省嘱託となり臨時平和条約事務局に勤務[1]。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業[5]、外務事務官に任官[6]。
在連合王国日本国大使館書記官等を経て[2]、1935年(昭和5年)在シドニー領事[7]。1937年(昭和12年)外務省通商局第二課長[8]。1938年(昭和13年)外務省通商局第一課長[9]。1940年マニラ総領事[10][11]、日本赤十字社マニラ特別委員長[12]。
1942年(昭和17年)に外務省通商局長を務めたのち、同年在タイ日本国大使館参事官に着任し[13]、坪上貞二特命全権大使の下、日本軍進駐下のタイでの日タイ軍費交渉にあたった[14]。
日本の降伏後、極東国際軍事裁判ではA級戦犯指定された東郷茂徳の補佐弁護人を務めた[15]。1950年弁理士登録[16]。1955年日米安全保障条約第3条に基く行政協定第26条による合同委員会の補助機関たる調停委員会日本政府代表[16]。
日本国際連合協会理事[3]、日本タイ協会評議員なども務めていたが、病気療養中の1971年に急性肺炎のため死去した[17]。叙正四位[18]。
Remove ads
著書
- 『国防と平和』国際聯盟協会、1924年。
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads