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早川鉄冶

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早川鉄冶
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早川 鉄冶(はやかわ てつや、文久3年5月25日[1]1863年7月10日) - 昭和16年(1941年6月5日[2])は、日本の衆議院議員立憲政友会立憲同志会)。外交官

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早川鉄冶

経歴

備前国岡山出身[3]1884年明治17年)に札幌農学校を卒業し、アメリカ合衆国のヘイスティングズ・カレッジやドイツベルリン大学で学んだ[2]。帰国後、外務省に入省し、外務省御用掛、外務書記生、交際官試補を歴任した[2]大隈重信の知遇を得[4]1897年(明治30年)に大隈が農商務大臣に就任すると、大臣秘書官、同省参事官製鉄所事務官を務めた[3]。翌年、大隈が内閣総理大臣に就任すると、内閣書記官兼弁理公使、外務省政務局長に登用された[3]第1次大隈内閣総辞職後は実業界に入り、大小20余りの会社の発起人となるが、芳しい成果を残すことができず、やがて特許弁理士の業務に従事した[4]

1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

その後は横浜護謨製造株式会社監査役を務めた[5]

栄典

著書

  • 『舌弾』(1918年、耕文堂)
  • 『戦後の青年』(1919年、戦後経営調査会)

脚注

参考文献

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