トップQs
タイムライン
チャット
視点
木下昌利
ウィキペディアから
Remove ads
木下 昌利(きのした まさとし、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。通称は将監、半右衛門。羽柴秀長の一族と伝わる。近江国出身。但馬国出石城(有子山城)の城主を務め、賤ヶ岳の戦いなどで活躍した。
生涯
天正8年(1580年)5月、羽柴秀長(当時の名乗りは「長秀」))は主君織田信長の命により但馬国を平定した。従来の伝承では秀長は出石城主に任ぜられ、家臣の木下将監昌利が城代に任ぜられてとされてきたが、古文書の研究の進展などで、出石城(有子山城)と出石郡を与えられて支配を行っていたのは昌利本人で、秀長には『信長公記』に記されているとおり、朝来郡の竹田城を与えられたと考えられている。このため、少なくてもこの段階において、昌利は秀長の家臣ではなく、羽柴秀吉の直臣になっていたと考えられている[1]。
翌9年(1581年)3月9日付の「木下昌利書状」(総持寺文書)では、総持寺に対し夫丸諸役を免除する旨が記されており、出石城主として領内を統治していたことが確認される[2]。
昌利は「羽柴秀長の一族」と伝えられるが、「羽柴秀吉の一族」ではなく、あくまで秀長の系統に属したとされる点が特筆される[2]。出生については諸説あるが、一説には羽柴秀長の実父竹阿弥(水野昌盛)の連れ子であり、秀長の異母兄にあたるとする見解がある。
天正4年(1576年)には、長浜城の留守居役として杉原家次・一柳直次とともに名を連ねており、この頃すでに秀長の側近的な立場にあった。以後、三木合戦・備中高松城の戦いなど各地の戦に従軍し、賤ヶ岳の戦い(1583年)でも活躍が見える。
同戦の3月11日の陣立てに「三番 木村隼人、木下昌利(半右衛門)」とあり、また『佐和山城物語』には、秀吉が敵方の動揺を察して木下昌利を神明山・堂木山の砦に入れ、山路将監・大金藤八郎らと共に布陣させたことが記されている[3][4]。このときの機動は秀吉本陣を支える重要な役割であった。
また『竹生島奉加帳』にも「木下将監」の名が見え、賤ヶ岳戦後の戦功を裏付ける資料とされている[5]。
Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads