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杉田玄甫

江戸時代の蘭方医、若狭国小浜藩医 ウィキペディアから

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杉田 玄甫(すぎた げんぽ、1692年1769年[1])は、江戸時代の蘭方医、若狭国小浜藩医。通称は甫仙、諱は玄甫。杉田玄白の父親でもある。

なお、「甫仙」は杉田家の歴代が称する通称であり、本項の人物(玄甫)は2代目に当たる[2]

父(初代杉田甫仙)について

杉田家はもともと近江源氏佐々木氏の流れを汲むという武家で(杉田玄白#祖先参照)、杉田八左衛門忠安は藤井松平家明石藩大和郡山藩古河藩)に仕え、300石取りの物頭を務めていた[2]。八左衛門の二男(幼名は「東」)は、蘭方医・オランダ語通詞の西玄甫[注釈 1]に医学を学び、医家としての杉田家を創始して初代杉田甫仙となった[2]。初代甫仙は藤井松平家に藩医として召し抱えられたが、元禄6年(1693年)に松平忠之が「乱心」したために藤井松平家は減封され[注釈 2]、そのあおりで初代甫仙は暇を出された[2]。推挙を受けて新発田藩溝口家に200石で仕えているが、藩主とそりが合わず、ほどなく致仕している[2]。元禄15年(1702年)、初代甫仙は小浜藩酒井家に臨時雇いとなり、翌年に正式の藩医として酒井忠囿に仕えることとなった[2]。これにより小浜藩医杉田家が誕生した。

生涯

玄甫(2代目甫仙)は元禄6年(1693年)に生まれる。

享保18年(1733年)、江戸牛込の小浜藩下屋敷において、三男として杉田玄白が生まれる[3]。この際、難産により妻を失う。元文5年 (1740年)に小浜に移住するが[3]、小浜在勤時に長男と後妻を失っている(小浜市の空印寺に墓がある)[4]。延享2年 (1745年)に再び江戸詰めを命じられる[3]

玄甫は信心深い人物であったといい、羽賀寺に弁天像を寄進した(ただし現存はしていない)[5]

1769年(明和6年)死去[3]、家督は玄白が継いだ[3]。なお、玄白の二男が甫仙(後に杉田立卿)を称している[6]

備考

  • 玄白の祖先についての記述は、多くが大槻玄沢の『杉田家略譜』による[2]

脚注

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