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李範
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経歴
睿宗と崔孺人のあいだの子として生まれた[3][4]。はじめ鄭王に封じられた。垂拱3年(687年)、衛王に改封された。長寿2年(693年)、巴陵郡王に徙封され、尚食奉御に任じられた。神龍元年(705年)、太府寺少卿に転じた。景龍2年(708年)、隴州別駕を兼ね、銀青光禄大夫の位を加えられた。景雲元年(710年)6月、睿宗が重祚すると、隆範は岐王に進封され、太常寺卿に任じられ、左羽林大将軍を兼ねた。のちに玄宗の名と連なるのを避けるため、隆範は範と改名した。先天2年(713年)、李範は玄宗に従って竇懐貞・蕭至忠らを討った。開元初年、太子少師に任じられた。太子少師のまま、絳州刺史・鄭州刺史・岐州刺史を歴任した。開元8年(720年)、太子太傅に転じた[1][2]。
李範は学問を好み、書を得意とした。文章の士を愛好して、貴賤なく礼遇した。閻朝隠・劉庭琦・張諤・鄭繇らと詩を唱和し、また書画の古跡を多く蒐集した[1][2]。開元14年(726年)4月丁卯、死去した[5][6]。恵文太子と追贈された。橋陵に陪葬された[7][2]。
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子女
脚注
伝記資料
参考文献
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