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松本暢

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松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日天保3年4月8日) - 1889年明治22年))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての医師尊王攘夷派の志士[1]。のちに壬生藩御典医・石崎家の婿養子となり石崎 誠庵(省菴)を名乗った。明治維新後は中央政府に出仕し、刑法官判事東京株式取引所理事長などを務めた。

生涯

天保3年4月8日、下都賀郡富山村富田に生まれる。松本新右衛門の次男で、幼名は新作。一度松本又作の養子となるが、後に実子出生により生家へ戻る。学問は水代村の鍋山休文に始め、ついで瀧山西谷に従学、その後藤森弘菴に私淑し、さらに水戸の藩医・本間玄長に医業を学ぶ。この頃より号を「省菴」と称した。勉学中に藤田小四郎と親交を結び、尊王の志が高く、「大義親を滅する」の気概を持つ人物であった [2]

藤森弘菴の媒酌により、壬生藩御典医・石崎正達の養女・お直と結婚して同家の婿養子となり、「石崎誠庵」を名乗る。夫妻は家の入口長屋南の二階建てに住んだ。壬生在住中は養父を助け医業に従事しつつ学問を修め、門下に教えを授けたが、その性格は激しく「舌禍火を吐き側に人ない様」と評された[2]

当時、藩政を専横していた江戸老職・鳥居志摩に反発し、文久元年(1861年)11月、侍講を命じられて藩主を補佐。翌文久2年(1862年)、同志十数名と江戸藩邸に乗り込み志摩の罪を訴え、これを捕えて帰藩し、罪を数えて切腹させた。以後、藩主は松本を信任し、その意見を容れて人材登用や藩政改革を進め、藩の士気が高まった。[要出典]

文久3年(1863年)、藩主が大阪城加番を命じられ、松本は先立って京阪を視察したが、壬生藩内は藩論がまとまらず、留守中に執政・大島正房らが処罰され、松本も罪なきまま禄を削られ自宅に約2年間幽閉された。幽閉中は読書や詩文にふけった[3]

元治元年(1864年)3月、筑波山で挙兵した水戸天狗党に協力したことから、藩内の敵対派による暗殺を恐れて脱藩し、石崎家からも除籍となる。その後、京都で木戸孝允らと親交を深め、維新後は明治元年(1868年)に尾張藩の推薦により中央政府に徴士として採用。明治2年(1869年)に刑法官判事、明治4年には正五位刑部大判事に歴任、明治8年(1875年)に大阪上等裁判所心得、明治9年(1876年)には長崎上等裁判所長に内命を受けるが、この職は辞して帰郷した。のち渋沢栄一の勧めで1884年 - 1885年(明治17年 - 18年)の間、東京株式取引所の理事長を務めた。[要出典]

壬生藩との関係では、明治2年(1869年)6月に藩主鳥居忠宝が藩知事に任命され、翌年、かつての尊王攘夷派である松本暢の仲立ちにより版籍奉還が行われた。その後、武士への給与制度の改善や新戸籍作成、壬生藩独自通用の紙幣発行などの改革が進められた。[要出典]

晩年は帰郷し、隠居所を「盤峰園」と名付けて大平町富田に隠棲。のち、同地の子孫が「盤峰園」の名を受け継いでぶどう園を営んでいる。[要出典]明治22年(1889年)病により死去 [4]

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脚注

参考文献

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